FC2ブログ

第三十三回 ストロー 1

食べ物・飲み物
09 /06 2018
学校帰りにアイスクリームを買う小学生。左のドリンクスタンドもビール、アイス、ヨーグルト・・・等がおいている。 1993年 北京

 身近で当たり前に存在するのと同じものが、所変わって見当たらない、存在しない(ようだ)という状況に遭遇したこと、ありますか?

 私がその一つとして思い出すモノに、ストローがあります。

 1985年夏の北京も暑かったのですが、例によって立ち寄る所は何処でも歓迎ムード。
 迎えた私たちに、少しでも暑さをしのいで快適に過ごしてもらおうという心づくしが、至る所で見られました。

 そのサービスの現れとして、飲み物がよく振舞われました。今でも観光ツアーで連れて行かれるお店などで飲み物が出てくる、アレです。
 当時は未だ缶入り飲料の技術が発達していなかったのか、缶ジュースよりも、瓶で出されることが多かったです。時には四角い紙パック入りジュースが出てくることもありました。

 味はオレンジの他、スイカやライチ、桃などもお目見えしていたと思います。既に中国らしい風味が、バラエティーに展開されていたのが印象的でした。
 当時で比較してみると○○味、というフレーバーに関する種類の豊富さだけで言えば、日本より中国の方が先を行っていたかも知れません。

手軽に水分補給。お茶を売る店。売れていない分には蓋が被せてある。 1993年 西安

 とにかく、初訪中で最もお世話になったのは瓶ジュースですが、中味はオレンジジュースが主流。昔懐かしい、粉末ジュースっぽい飲み口だったと記憶していますが、暑い盛りにはそんなこと、どうでも宜しい。出されるままに、グビグビやっていました。

 しかしこの瓶ジュース。最後まで飲みきるには、一手間が要ったのでした。
 勿論、ラッパ飲みでもすれば別ですが、瓶に挿してあるストローが紙製だったせいです。


 ・・・以下続く

(※ 註:この記事は 2006.7.30 に掲載されたものを転載しています)
スポンサーサイト

第三十二回 糧票 3

食べ物・飲み物
09 /05 2018
 細かいことはよく判りませんが、糧票は全国版や地方版もあったようです。穀類そのものを買うためだけではなく、穀類製品を買うのにも必要でした。

 ギョウザやシュウマイの専門店などでは、現在でも斤(ジン・1斤は500グラム)の単位でメニューに載せていることが、ままあります。その食べ物を作るのに要った、小麦粉の量を示しているのです。慣れていないと、注文の際に戸惑ってしまうかも知れませんね。
 余談ながら、日本でも人気の小籠包(シャオロンバオ・日本だとショウロンポーと、何だか日中チャンポン?のような音で通っていますが)や蒸しギョウザなど、セイロで作るようなものですと、籠(ロン・1セイロ2セイロ・・・と言うのでしょうか)が単位になることもあります。
 日本だと一人前何個、と云った表示でしょうが、そこはおかずではなく、主食の一つとしてギョウザやシュウマイを食する国民性ならではでしょう。

 南京ではサンザンな思いをした糧票でしたが、時が下って北京大学留学時には、私も中国の友人が分けてくれたのを持っていました。

 生活が苦しかった1950、60年代には、配給切符を他人に譲るという行為は、恐らく考えられないことだったのでは、と思います。
 しかし90年代に入ると、食糧の国内総生産量が飛躍的に伸びて、既に配給制度そのものが無実化していた、ということだったのでしょう。

 結局、自分で使うことが殆どなかった切符は、記念に日本へ持ち帰り仕舞ってあります。
 何かの拍子で目にすることがあると、当時を懐かしく思い出します。しかしその思い出は、大概は1、2でお話ししたような、残念ながら惨めさが付きまとうものばかりでした。国や社会制度の違いを体感出来た、そういう意味では貴重だったかも知れませんが・・・。

肉あんを巻いて作る“麺料理”。 1993年 北京

 近頃では、中国国内でもコレクターが存在している糧票。「最古の糧票を発見!」といった話題が、新聞紙上を賑わすこともあります。

 現地でもそうなのですから、ヨソの国では尚のこと。糧票は若い人の知識としてすら留まらない程、旧い時代の遺物となってしまいました。
 私より5級くらい下の年代になると、大学で中国関係の勉強をしていた人にですら、糧票のことをネタにしても「何ですかソレ?」という顔をされるのです。


 ・・・以下続く

(※ 註:この記事は 2006.7.7 に掲載されたものを転載しています)

第三十一回 糧票 2

食べ物・飲み物
09 /04 2018
今や中国国内でもコレクターズ・アイテムとなっている糧票。全国版と地域版がある。

 時代は北京大学留学の頃を更に溯ること数年、糧票がもっともっと効力を奏していた、1989年は南京でのお話です。

 南京に旅行で来ていた私は、短期留学で一緒だった友人と繁華街を歩いていました。
 その時、食堂の表にせり出した大きなセイロから、ホカホカの湯気が立ち込めているのが見えました。人だかりをかき分けて湯気の主を確かめると、そこには顔の半分もあるか、という大きな肉包(ロウバオ・肉饅頭)が。外で売っている食べ物って、どうしてこう美味しそうに見えるのでしょうか。

 「食べたいねえ」。友人と二人、顔を見合わせました。
 人民に混じって「下さいな」と言ってみたものの「◎×△$・・・」何か返答している。
 どうも糧票が無いから駄目だと言っているようなのですが、ここは知らんフリで又「下さいな」を繰り返してみる私。
 こういう場合、生半可な語学力で中途半端な問答をするよりも、全く言葉を解さない風を装った方が、コトが巧く運ぶことがままあります。ひょっとして、根負けして売ってくれるかも。
 しかし、虚しくも頑として売ってくれる気配ゼロ。ちぇ、と思っていると同行の友人は、やおら食堂の中に入って行きました。
 私も後について行くと、友人は腰をかがめて店内をウロウロしていました。☆!そうか!!彼女は店の床に糧票が落ちていないか、探していたのでした。

今は何でも何処でも、気軽にモノが買える時代に。 2002年 北京

 果たして!彼女はボロボロに黒ずんだ糧票を床の隅から見付け出したのです。やったー!
 でも、この糧票で一体何個買えるか知らん・・・。
 でも、もはや数の問題ではありません。(食い)意地の問題です。そうして差し出した糧票と、値段は忘れてしまいましたが、幾らかのお金と引き換えに、私たち二人の手に肉包は手渡されたのでした。
 勝利(?)の味を噛み締めつつ肉包を頬張ったのは、言うまでもありません。


・・・以下続く

(※ 註:この記事は 2006.6.19 に掲載されたものを転載しています)

第三十回 糧票 1

食べ物・飲み物
09 /03 2018
饅頭(マントウ)を作る工場にて。 1993年 フフホト

  改革開放政策という社会の変化に伴い、既に撤廃して現在では見られなくなってしまったモノが、中国には幾つかあります。

 その一つに、糧票(リャンピャオ)が挙げられます。
 票は「切符」、糧は「穀類」の意味ですから糧票は「食糧切符」のこと。同様に油票、卵票、肉票などがありました。

 これらは1950年代から始まった配給制度に基づくもので、生産、販売量を国が統制していた食料を市民が購入する為に必要でした。
 食料だけでなく日用品、例えば布地にも配給切符があったという話を聞いたことがあります。切符やカードを割り当てることで、供給量が決められていたのです。

 その後、1978年から開始された、農村経済改革による家庭生産量請け負い責任制実施、人民公社の解体などで、こうした制度も徐々に緩和されるようになりました。
 因みに穀類、食用油に関しては、1993年に販売が自由化され、同時に糧票も完全に姿を消しています。

特大のセイロで一気に蒸し上げる。 1993年 フフホト

 私が北京大学に在籍していた1990年代初頭は、まだ一部ですが糧票が幅を利かせていました。場合によっては割高価格で売ってくれることもありましたが、糧票が無ければ駄目!の一徹で通されたこともありました。

 そのような場合、概ね諦めのいい私は、販売員も規則でそう言っているのだろうし、売ってくれないならじゃあいいや、と聞き分け良く他所の店に行くか、その日は別のものを買うことにするか、という態度。

 中国人にクチバシで勝てる訳が無い、と妙に悟っていた私でしたが、中には喧嘩腰で品物を強引に購入したり、中国人の知り合いに糧票を譲ってもらい、それを使用している留学生もいたようです。


 ・・・以下続く

(※ 註:この記事は 2006.6.6 に掲載されたものを転載しています)

第二十九回 代用食品

食べ物・飲み物
09 /02 2018
北京大学の寮の部屋で、誕生日を祝う。母国から送られたお菓子を皆にふるまって。 1992年 北京

 代用食品、などというコトバは戦争中でもあるまいし、今の日本では(否、中国でも)もはや死語に近いかも知れません。

 中国の、少なくとも都会では外資系大型スーパーやデパートの存在は、現在では当たり前のように人びとの生活に身近なもの。日用品でも食料品でも何でも、無いモノは殆ど無いくらい。却って中国の友人や、現地に駐在している日本人へのお土産探しに苦労する程です。

 90年代初めの北京でも、既に外資系スーパーが進出していて、主だった輸入食材の入手は可能になっていました。
 けれどもそれらは、留学生にすれば概ね高価な品でした。
 大抵の留学生は、お財布と相談しながら時には奮発したり、どうしても手に入らない物があれば、代用品で調達するなどしていました。

 イタリア人留学生は、ピッツァが食べたくなるとリッチにやる時には高級ホテルのイタリア料理店などに繰り出していましたが、通常は回教徒の人が食する、お盆のような形のパンを、ピッツァ生地の代用としていました。
 彼らは代用の生地にトマトの薄切りと、国から持って来たのか一抱えもある、大きな大きなチーズの塊から大切に少しずつ削ったチーズを載せたピッツァで、郷愁を感じたりしていたのでしょうか。

 私も、代用食品ではありませんが、食べ遺したパンをガリガリに乾燥させ、おろし金ですってパン粉にするなど、日本でもやらないことを、マメマメしくやっていました。
 乾燥がちな気候を利用して、切干大根なども作っていました。面倒なことではなく、洗濯ロープに箱を吊るして、そこに並べておけば自然に出来上がり。手間も要らず、味噌汁や煮物の具に活用していました。

イタリア人留学生がピッツァの生地の代用によく使っていた、ナンという回族のパン。 1992年 ウルムチ

 無いなりにも工夫する生活。それを寧ろ、面白がるセンスを磨く。これも又、異文化に身を置く楽しみと言いますか、意義の一つかと思います。

 でも、そんなことは不自由な状態になってみなければ、やはり理解は難しいかな?


 ・・・以下続く

(※ 註:この記事は 2006.5.14 に掲載されたものを転載しています)

かずよ

北京留学時代のちょっと懐かしい話題から現代中国事情

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。