FC2ブログ

第四十二回 歌舞音曲紀行・佐渡篇

音楽・演劇 等
10 /04 2018
佐渡といえば、やっぱり佐渡おけさ♪ 2006年

 6月のある週末、前々から行ってみたいと思っていた佐渡島へ行って来ました。天候に恵まれ、なかなか良い旅でした。

 佐渡というと、一時拉致問題でよくメディアによく登場して、何やら恐ろしいトコ?みたいなイメージを抱きがちです。が、昔から配流の地だった歴史的背景からも「何者も受け入れる」という気質が育まれたのでしょう。大らかな温かみも、そして文化もある所でした。

 ラッキーなことに滞在当夜は、ホテル近くの神社で薪能が奉納される、と聞かされました。
 ホテルに入る前に立ち寄った能楽資料館で、コンピュータ制御された立派な電動人形による能楽観賞をしたばかりでしたが、やはり生身の人間には叶うまい。荷物を部屋に置いてすぐ、神社に行ってみました。

 本番まで未だ大分時間があるというのに舞台では、本番さながらにリハーサルが行われていました。会場準備をなさっている方から、少しお話しを伺うことも出来ました。
 聞けば皆さんプロの役者ではない、とのこと。そして若い方の参加も、最近少しずつ見られるようになったそうです。

 トップリと日も暮れ、夜のとばりも下りる頃。道の両脇にぶら下がる提灯の明かりが、舞台へといざないます。
 夜の静けさにかがり火が揺れるという、厳かな雰囲気で『清経』が粛々と演じられました。上演約1時間。月夜の下で毛布にくるまって観賞しているカップルもいました。寒いけれど、なかなか素敵なデートです。

「清経」もいよいよクライマックス。 2006年


 私は薪能は初めて鑑賞したのですが、能楽堂で観るのと違い、自然と舞台、演者が一体となってファンタスティックな体験でした。能楽本来の姿に、少し触れた思いです。

 佐渡は能が盛んな土地。佐渡の能の起源は、諸説ある中から拾ってみますと、例えば京都から追放された都人や世阿弥が伝えたもの、というのもあります。

 観賞中、いよいよクライマックスの場面で、私の横に立っていた地元の方が、舞台上の役者に合わせて謡いを口ずさんでおられました。凄い。こういう教養をチラリとでも見せられるのは、とっても素敵。
 地元に根ざした文芸の、層の厚さも感じられました。

 興奮も冷めやらず、舞台の後には、地元テレビ局のインタビューにも調子に乗ってペラペラと応えていた私。
 ひょっとして自分のコメントがテレビに出るかも、もしオンエアーされたなら見たいなぁ、などと、俗なことばかり考えている。
 少しは高尚な世界を覗けたというのに全く・・・、なのでした。


・・・次はミャンマー篇!

(※ 註:この記事は 2006.12.25 に掲載されたものを転載しています)
スポンサーサイト

第四十一回 歌舞音曲紀行・フジコサン

音楽・演劇 等
10 /02 2018
『奇蹟のカンパネラ/フジ子・ヘミング』 VICC-60123  ビクターエンターテインメント株式会社

 今更私などが申すまでもなく、長い不遇の時を経て、今や押しも押されぬ人気ピアニスト、フジコ・へミングさん。演奏のテクニックだけでなく、長い旅路にも似たドラマティックな歩みにも、人びとは惹き付けられるのかも知れません。

 服作りをしている私の母は、実はかつて一度だけ、フジコ・へミングさんの衣装を手掛けたことがありました。

 もう25年以上前のことですが、当時母がよく服をお作りしていたお客様のご友人の親戚、にフジコ・へミングさんが当たるのだそうです。
 複雑ながらそういうご縁で、スウェーデンから帰国したばかりのフジコ・へミングさんは母の所へお越しになり、コンサートを控えているので衣装を、とオーダーがあったのでした。

 一度携わった作品や顧客というのは、そう忘れるものでもないらしく、その時お作りしたドレスが白色でトレーンをなびかせたようなシルエットだったことや、彼女の風貌を母はよく憶えていました。又、不思議にもフルネームは忘れていたくせに、周りから「フジコサン」と呼ばれていたことだけ、母は記憶していたのです。

 近年、フジコ・へミングさんがメディアで採り上げられだすようになると、母はあの時の「フジコサン」かしら?と言ってはいたものの、確認することもなく月日が流れて行きました。
 「フジコサン」を連れて来られた方は、その後海外に移住されたこともあり、母はそんなことをワザワザ尋ねるのも、と先延ばしにしていました。
 そんなことで、別の筋からあの時の「フジコサン」は、やはりフジコ・へミングさんのことだと判明したのは、つい最近のことでした。

 是非に、とご本人に請われ「フジコサン」のコンサートへ当時の母は足を運んでいます。
 今やチケットがなかなか取れないアーティストの一人となったフジコ・へミングさんですが、25年も前なら、未だ不遇の時代。思えば母は、なかなかレアな体験をしていることになります。

一年の大半を海外演奏旅行で過ごすと云う“フジコサン” 日本でのお家のある。 東京 下北沢

 余談ながら「フジコサン」の職業がピアニストだと知った母は、彼女に自分の子供(つまり私のこと)に、ピアノとバイオリンのどちらをを習わせたら良いかを、ご相談したのだそうです。
 当然のことながら「フジコサン」からのアドバイスは、ピアノが良いでしょう。かくて私の稽古事は、めでたく(?)ピアノに決まったのでした。

 母にすれば、単にプロの方にちょっと伺ってみようかと思ったのでしょうが、イヤハヤ。
 超有名ピアニストとして名を馳せるのは後のこととしても、シロウトとは畏れを知らぬものです。

 しかし。「フジコサン」ほどの、とは言わずとも、ちょっと面白いエピソードやドラマというものは、案外どこにでも転がっているのかも知れません。


 ・・・次は佐渡篇!

(※ 註:この記事は 2006.12.25 に掲載されたものを転載しています)

第二十三回 歌舞音曲紀行・ペルー篇

音楽・演劇 等
08 /26 2018
2003年 ペルー マチュピチュ

 高度障害のリスクをなるべく避ける為、ペルーの首都・リマで軽く身体を慣らしてから向かった古都・クスコにいよいよ到着した時、私は少なからぬ興奮を覚えていたに違いありません。

 「アンデス」という語で私などは単純にイメージしてしまう、フォルクロ-レな世界に、いよいよ突入だからです。
 何となく感じる空気の薄さすら、未知なる世界へ脚を踏み入れるワクワク感をかき立てるのです。

 着いた早々、何故か空港のターンテーブルの横で民族衣装姿の楽団が音楽を奏でてくれているのが、余計に旅情をそそります。
 しかし、空港のターンテーブルで楽団生演奏の歓迎(?)なんて、普通無いよな、とは勿論後で冷静になった時に思ったことです。

“ペルーの寺尾聡” 2003年 ペルー クスコ

 クスコ入りした夜、私たちは、フォルクロア・ショウに出掛けました。夕食をしながらの鑑賞です。

 ショウで彼らが主に使用する民族楽器は、名称が判らなくとも、その音色を耳にすれば「ああ、この音か」と思われるものが、少なくないのではないでしょうか。
 アシで作った笛のシークやケーナ。ケーナは古くインカ時代から伝わる楽器です。小型ギターのチャランゴには、アルマジロの甲羅を共鳴胴に使われています。
 インディアンハープとも呼ばれるアルパは、5オクターブもの音域を紡ぎ出すと云います。
 ボンボという羊や牛の皮を張った太鼓も、独特のリズムを刻む、大事な要素を担っています。

 アンデス地方で多くの人口を占めるインディオは、顔かたち、背格好が何となく我々と似ていて、親近感を覚えます。
 人種的には、中米(マヤ、アステカ)と共に、モンゴロイド系。陸の続いていた太古の昔に我々日本人とも繋がりがあった、という説も納得が行く話だワ・・・なんて思っていたら、ショウの出演者に寺尾聡さんのソックリさんを発見してしまいました。

 それはさておき、有名な『コンドルは飛んでゆく』をはじめとした、彼らの音楽は、本当に私たちの琴線に触れるメロディー。素朴な民族性がよく現れているからでしょうか。

人形みたい・・・。 2003年 ペルー チチカカ湖

 翌日は旅のハイライト、マチュピチュ行きを控えていたのですが、この夜の音楽は、そのまま観光のヤマ場を迎える序曲となったのでした。


・・・又「玉手箱」でお会いしましょう!

(※ 註:この記事は 2006.2.4 に掲載されたものを転載しています)

第二十二回 歌舞音曲紀行・ベリーダンス篇

音楽・演劇 等
08 /25 2018
民族舞踊ショーにて。 2005年 モロッコ マラケシュ

 2005年の夏休みで出掛けたモロッコで、ベリーダンスを観る機会がありました。

 夜遅いディナー後のショウ・タイムだったのですが、他の欧米人観光客も含め、それまで眠たそうにしていた皆が、豹変。踊り子さんは、一身にフラッシュを浴びていました。

 やはりビキニに腰布を覆ったような衣装や、エキゾチックな姿態に民族楽器が奏でるミュージック、となれば誰でもそのムードに惹きこまれることでしょう。

 アメリカや日本で稽古事や健康法の一つとして人気を集めているのとは別にして、この民族舞踊は随分と広い地域で踊られていたのだな、と思わざるを得ません。

 私自身数えればモロッコ、ギリシャ、トルコ、ロシアで数々の“艶技”を堪能してきたことになります。

 モロッコでは、もう少し体つきも妖艶な踊り手だったらもっと良かったのに、とオジサンのような感想が残りました。
 ギリシャでは、近寄って来た踊り子さんが結構オバサンで驚きました。
 トルコでは、バザールにベリーダンスの衣装がずらーっと並べて売っているのに、その浸透度が伺えました。
 ロシアでは、気恥ずかしくて折角用意したチップのお札を、胸や腰に挟んでやるのではなく手渡しをしてしまうという野暮をしでかしました。

1997年 ロシア モスクワ

 それはさておき、調べてみますとベリーダンスは、その起源に諸説あります。砂漠の民ベドウィン族の踊りや、エジプト、中近東のアラブ諸国の王宮に伝わる舞踊から発祥した、等々です。

 現在ベリーダンスの本場というイメージの強いトルコでは、オスマン・トルコ時代にインドから音楽家や舞踊家を招聘して、宮廷の芸能人が学んだとされています。この舞踊にはインド舞踊の要素が採り入れられている、とも言われている所以です。

 又、風土的に見れば、砂の上ではステップや跳ねる動きが取り難く、よって地に足を付けた、限られた状態で踊る為に、腰や胴体をくねらせるなど、女性の体型を活かした独特な動きが生まれたのだろう、とされています。

 ヒトが全身を駆使して、その心情や感動を伝達する表現方法の一つである舞踊の原点を、ここにも又見ることが出来ると思います。


・・・次はペルー篇!!

(※ 註:この記事は 2006.1.26 に掲載されたものを転載しています)

第二十一回 歌舞音曲紀行・北朝鮮篇

音楽・演劇 等
08 /24 2018
万寿台芸術劇場 1991年 平壌

 北京時代に、機会あって北朝鮮を旅行しました。北京在住の日本人を当て込んで、中国の旅行会社が企画した、最初のツアーでした。

 現在は日本からも商品としてツアー旅行が出ていますが、制限や事情による内容変更も余儀なくされているのが現状なようです。参加された皆さんの満足度はどうなのでしょうか。
 でも、少なくとも現時点においてはそう簡単に行ける国ではなく、きっとそうした不測の事態をも、旅の良き思い出になさる方が大半ではないでしょうか。

 私たちの北朝鮮ツアーも、初日から予定に組まれていない行程が、入国早々に伝えられました。

 それは夕食後にコンサートを鑑賞する、というものでした。
 マ、そういうことなら・・・と、異論も無く連れて行かれたのは、平壌市内の万寿台芸術劇院。
 夕闇に白くそびえる大劇場を、入国したばかりで未だ緊張のほぐれないままに、キョロキョロしながら入場したものでした。
 誘導係として、チマ・チョゴリ姿の綺麗なお姐さんが、劇場入り口に立っていました。
 ボーっと見とれていると、その胸には金日成主席バッジが。やっぱりココは北朝鮮なのでした。

 公演は、歌、舞踊、演奏が多彩に組み込まれて、あっという間でした。
 後で聞きますと、全ての演目は一貫して、金正日総書記(ポスト名は現在)を称える内容で、一つのストーリーになっている、とのことでした。
 そう言えば確かに、金総書記が生まれたとされる白頭山中の丸太小屋を背景にした、ヴァイオリンの演奏もありました。曲目は分かりませんが、きっと金総書記誕生の物語を描いた曲だったのでしょう。

 しかし、やはりと言いますか、外国人にも自信を持って見せるだけのことはあります。
 彼らの水準が相当なものだとは、シロウト目(耳)にも判りました。
 恐らく国が総力を以って人材を選別、徹底的に英才教育を施した結果の一つがこれなのだと思うと、是否はともかく、教育というものの凄さ、大事さを思わずにはいられません。

舞踊『祖国のつつじ』 金正日書記とともに祖国三池淵に帰り着いた喜びを唱い上げている。 万寿台芸術劇場 1991年 平壌

 ごく普通の家庭に育った日本人の子供が、妙な平等意識を主体にした教育の元に「フツー」である、或いは「没個性」などと嘆き半分で称されているのは、これ又現在における日本の教育姿勢の賜物なのであります。
 そうは言っても、後々他より抜きん出た才能で世の中に貢献する人や、個性的とされている人が、そういう処から出て来ることだって少なくないのですから、捨てたものでもありません。

 ヒトはどうとでもなり得る恐ろしさがありますが、一筋縄で行かない面白さもある。だから人間、なのでしょうね。     


・・・次はベリーダンス篇!

(※ 註:この記事は 2006.1.19 に掲載されたものを転載しています)

かずよ

北京留学時代のちょっと懐かしい話題から現代中国事情

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。