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第三十九回 北京住宅変遷記~M氏の場合~4

知人・友人
09 /18 2018
3軒目の家。手前にリビング&キッチン。奥にバス・トイレ、和室。 2005年 北京

 M氏の3軒目のお宅の中でも特に秀逸なのは、現代日本住居でも少なくなってしまった、和室。

 日本での生活経験があるからとは言え、M氏宅の和室は、本当に良く出来ています。我々日本人から見ると?と思うことがありがちな「ガイジンの日本趣味」たる雰囲気が殆ど感じられず、寧ろ、参考にすべきアイデアが、随所に見られました。

 間取りは、四畳半の空間を挟むように押し入れ、違い棚、床の間が設えられており、収納もスッキリ。
 窓際に沿って最初から作り付けられてあるスチーム暖房機は、入り口側から見えないように、和室の高さが合わせてありました。窓に向かって腰を下ろすスペースが空けてあり、窓越しの景色も楽しめるようになっています。これは、中国人には正座の習慣が無く、椅子に腰掛ける生活スタイルなのと、ひょっとしたら日本の縁側からも、ヒントを得たのかも知れません。

 そして、上がりこむような高さのある和室には、もう一つ理由があったのでした。
 部屋を見回している私に「見てて」とM氏はおもむろにリモコンのスイッチを入れました。一体何が始まるのかと思ったら、和室の真中にある半畳畳がせり上がって、何と掘りごたつ式のテーブルが現れたのでした。
 この電動テーブルは、日本にもある商品らしいのですが、私は初めて知りましたし、実物を見るのも、勿論初めて。
 しかし電動テーブルだけでなく、障子やふすま、畳も全て中国製。日本のメーカーが進出、製造しているのを、中国国内向けにも売り出しているのだそうです。
 長期滞在型の、日本人駐在員向けの住宅なら、少しは需要があるでしょうが、一般的にはどうか知らん・・・・。

バス・トイレ。この浴槽も和風に木製の湯桶にしたかったそうだが、サイズが合わず断念。 2005年 北京

 では、単刀直入に、和室は中国人に人気があるか、否か。
 M氏によると、和風インテリアは人気があるものの、実際中国人の住まいにおける和室の普及率は、北京でも未だかなり低いだろう、とのこと。というのは、やはりコストがかかってしまう為。
 因みに、この部屋の内装工事費用内訳を教えて貰いました。

  キッチン部分とリビング : 13,000元(1元約15円くらい)
  バス、トイレ : 17,000元
  和室 : 24,000元

 和室、ダントツ。やはり高くついてしまうから敬遠されてしまうのか。

 しかし、それも和室の良さを皆が知らないからでしょう、とM氏は自ら設計、指示して造った和のお城に、ご機嫌な様子でした。

 夜の訪問にも関わらず、ついつい長居をしてしまったのは、ただ感心しただけでなく、この和室に安らぎを覚えてしまったからでした。
 和室の良さを日本の外で再認識しようとは、何とも不思議な話ではあります。


 ・・・以下続く

(※ 註:この記事は 2006.11.26 に掲載されたものを転載しています)
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第三十五回 有縁千里

知人・友人
09 /08 2018
2005年 北京

 1985年、青少年洋上セミナーで初訪中した時のことです。

 日中友好育むという趣旨から、単なる物見遊山に留まらず、この時の旅程には様々な活動や催しが組み込まれていました。
 その活動の一つ、北京市内の高校への交流訪問で、私たちの班が割り当てられたのは、市内随一の進学率を誇る中学(日本の中学、高校は、中国の初級中学、高級中学に相当)でした。
 学校の講堂で開かれた交流会で、たまたま同じテーブルに着いていた中国側の一人が、私の最も旧い中国の友人、教師だったM氏でした。

 スッカリ忘れていたのですが、どうやら私が訪問した先々で配っていた住所交換のメモを頼りに、後日お手紙を下さったのが文通の始まり。以来20余年の大半は細々とではありますが、主に紙の上での付き合いが続いています。
 その間双方それぞれが、国費留学生としてお互いの国に2年滞在し(M氏は大阪外国語大学、東京学芸大学。私は北京大学)、私や家族の者が北京へ行くことがあれば、少しの時間でも会っていましたから、思えば不思議なご縁です。

 さて、現在の彼は、と言いますと、夫婦(奥様も元は同校の教師)共に教職を辞し、現代中国知的若夫婦の典型たる転身を遂げます。

 M氏は、この若さ(40代)にして某学院の副院長に就任。たまに教壇に立つこともある、という生活。元は歴史の教師でしたが、現在受け持っている講義は、なぜか証券などの経済関係。実際に証券取引もしていて、結構羽振りが宜しいようです。
 奥様は元化学の教師でしたが、現在は某香港服飾メーカーの北京地区代表として、超多忙な毎日。
 あらゆる面で今正に伸びゆく、元気な中国の時流に見事乗っかったようなお二人ではあります。

 それでも両名共育ちの良さゆえか、ガツガツ・ギラギラ、という感じは皆無。だからこそ私も今日まで付き合いも続けているのでしょうが、さり気無くスゴイ所がスマートで、なかなか格好良いのであります。

 彼らの華麗な経歴を見ながら、フト我に返ると、一体自分は・・・、と思う時もあります。行き当たりバッタリ人生の私とは随分な差です。

久し振りに登った天安門の楼上からの天安門広場のながめ。 2005年 北京

 私自身は大したことも出来ない人間ですが、それでもせめて誠実に、孔子の言葉のように、彼らにとって会うたびに「朋あり遠方より来たる、また楽しからずや」な存在でありたいと思っております。


 ・・・以下続く

(※ 註:この記事は 2006.9.10 に掲載されたものを転載しています)

第七回 思ひ出 2

知人・友人
08 /06 2018
 陳真先生には、その後私が北京へ留学することが決まった際「中国でしか出来ないことをして来て下さい」とはなむけの言葉を頂きました。
 その時其処でしか出来ないことを。それは確かに私のモットーとして、今でも私の心に刻まれている言葉です。

 私の北京滞在期間中は、先生にとっては日本と中国を往復する、最もお忙しい時期に当たっていたと思います。
 日本でのお仕事の他に、北京大学の漢語中心(語学研修センター)でも教鞭を執っておられました。

 北京大学のキャンパス内で先生に偶然再会した折には、遊びにいらっしゃいよとご自宅へ招んで下さり、後日お邪魔したことがありました。

 お住まいの、北京放送職員宿舎の場所が判り難いでしょう、と親切に行き方を教えて下さり、伺うとバルコニーで手を振って待っていらしたお姿が忘れられません。
 昼食を挟んで沢山のお話を聞かせて頂きました。戦前に暮らしておられた日本でのこと、中国へ帰国してからのこと・・・。

 自分の勉強不足を晒すようで何ですが、「定年退職する」という意味の中国語は通常「退休」と習うと思いますが、解放前に入党(革命に参加)した人の場合は「離休」と言うのだということを、先生のお宅で初めて教えられました。

.陳真先生のお宅へ伺った折のプライベート・ショット。 1992年

 先生は在宅時も、しょっちゅう電話が入って、お忙しそうでした。
 ある電話ではずっと日本語で、しかもかなりくだけた調子でのお話しぶりだったので、一体相手はどなたかしらと思ったら、姉上様からの電話とのこと。姉妹でも日本語で通すほど素晴らしい日本語なのに、ご本人はまだまだ、と仰るのには、本当に我が身が縮こまる思いでした。

 ・・・結局お会いしてゆっくりとプライベートなことをお聞きしたのはこの時だけで、もっと機会を持てなかったものだろうか、と今更ながら悔やまれます。

 本当に残念です。
 ご冥福をお祈りしたく、先生の初盆に一筆させて頂きました。

 ・・・以下続く

(※ 註:この記事は 2005.8.20 に掲載されたものを転載しています)

第六回 思ひ出 1

知人・友人
08 /03 2018
 2005年の年明け早々、悲しい報せが届きました。
 NHKテレビ中国語講座などで御馴染みでした、陳真先生の訃報です。
 北京放送時代からのファン、TV講座や、先生の著書などで中国語や中国の世界へ誘われた皆さん・・・、多くの方々がショックを受けられたことでしょう・・・。
 各々が先生との思い出を、それぞれにお持ちのことと思います。
 私にもここで少し、思い出話をさせて下さい。

 1991年、先生が来日されて恐らく最初のお仕事だった、NHKのテレビ講座で私は(名前だけはカッコいい)スタジオ・ディレクターのアルバイトをしていました。
 番組に使う小道具を用意したり、台本に沿ってテロップ(画面にかぶせる文字)を機械に組み込んだり、Q出し(出演者に話し出すきっかけを指示すること)をしたり・・・。
 色々あって面白かったです。

当時のNHKテレビ中国語講座のスタジオセット。たった数10分の番組作製に半日も掛かる!(取材を含めるともっとだが・・) 1991年 東京

 陳真先生を初めてスタジオで紹介された時は、流暢な日本語のせいだけでなく、本当に中国人なのかと心底オドロイタものでした(それまで目にしていた中国人のオバサン像とは大分異なっていたので)。

 当時の番組作りには、未だCGが導入されていませんでしたから、テキストの文章を音読練習する際は、ボードに書かれた文章を先生が棒で指しながら読んで行っていました。
 そういう時に、次のボードへフリップ(紙芝居のようにめくること)していたのは私(ともう一人の相棒)でした。

 先生は背の小さい方でしたから、用意した椅子の高さが間に合わず、道具方で木枠の台を作り、その上に椅子を載せて座っておられました。
 気を遣われる方で、他の出演者やスタッフの方と撮った写真を焼き増しして、丁寧に言葉を寄せて下さったのを覚えております。

 空色など青系の色がお好きだと仰って、衣装も地味めなのが多かったようですが、却って清潔感がそのままにじみ出ておられました。その上品な物腰に相まって、講座放映時は相当にファン層が広まったのでは、と思います。
 実際、服作りをしている私の母は中国語など一つもやりませんが、TVを観ていて先生にこんなのどうかしら、と衣装を作って差し上げたいことをよく言っていました。


 ・・・以下続く

(※ 註:この記事は 2005.8.15 に掲載されたものを転載しています)

かずよ

北京留学時代のちょっと懐かしい話題から現代中国事情