FC2ブログ

第二十七回 留学生の食事情 1

北京大学
08 /30 2018
第二十七回 留学生の食事情 1


北京大学の中国人食堂(中国人学生食堂2でご紹介)。人が多すぎて何の絵か判らないですよね・・・ 1992年 北京

 恐らく多くの留学生が、安価な食事が提供される学生食堂を利用しているでしょうが、北京大学構内では、他にも数軒のレストランが開業しています。
 どういう利権システムで運営されているのかよく判りませんが、90年代初めで既に日本料理屋、焼肉屋、しゃぶしゃぶ屋などがありました。

 これらは街のレストランと同様の利用方法で、職員の小宴会や、中国語の家庭教師をお願いしている中国人学生に、ねぎらいの宴を張っている留学生の姿、学生食堂の食事に飽きてしまった学生なども見受けられたものです。

 大学周辺にも手頃な料理屋はあるので、たまには外食を、という日もあります。私個人としては、食生活に不自由を感じることはありませんでした。

 北京大学の留学生用食堂は、留学生寮の裏に付設されています。私が滞在していた頃は、中国人学生の利用は原則不可でしたが、現在はどうなのでしょう。
 中の構造は、食堂内の一部を仕切り、一方は服務員が注文を取りに来て、宴会も出来るような点菜部(ディエンツァイブ・「点菜」は料理を注文するという意)で、もう一方は中国人学生食堂のように窓口で自分が食べたい物を選びます。前者は現金払いで、後者は食券制となっていました。

北京大学勺園(留学生寮)食堂。右が点菜部、左が一般の食堂。昔とあまり変わらない。 2002年 北京

 中国人学生食堂と異なり、見本があらかじめ窓口に並べられているので、名称が分からない場合も、指して注文すれば済みます。
 メニューは中国料理から西洋料理まで、守備範囲が広いのはさすがです。ただ、あくまで「中国式」西洋料理なのは致し方ありませんが・・・。

 料理は皿に盛って供されるので、マイ食器持参の必要は特にありませんが、食堂で食事をせず、自炊派が、米飯だけ買いに器持参で現れることもあります。

 学生食堂は、食べるだけでなく様々な情報交換の場なので、それなりに利用価値のある場です。が、私も留学2年目以降、学食へ足を運ぶ頻度は減り、自分で料理して自室で食べる、自炊派に転じるようになりました。


 ・・・以下続く

(※ 註:この記事は 2006.3.10 に掲載されたものを転載しています)
スポンサーサイト

第二十六回 煎餅

北京
08 /29 2018
典型的な煎餅の屋台。コンパクト、且つシンプル、機動的。 2002年 北京

 このタイトル、「せんべい」と読むか否か。
 ここでは中国語で「ジェンビン」と読んで頂きたい。

 字は同じでも、中国のそれは小麦粉を溶いて薄く焼いた生地の中に辛味噌、卵、葱、香菜、油でパリパリに揚げた油餅(ヨウビン)などを折りこんだ食べ物。中国風クレープ、と説明している料理本もあります。

 北京大学に留学していた後半期の毎週月曜日は「按摩の日」と決まっていました。学生の分際で何がアンマだ、と思われるかも知れませんが、当時重度の腱鞘炎にかかり、その治療に通っていたものです。

.ジエンピンにはさむ油餅を揚げている。

 治療を終えた帰りにバスに乗る所を2駅分ほど歩き、人民大学周辺の屋台で煎餅・ジェンビンを買ってパクつきながら露店を冷やかし、乗り合いバスを拾って大学へ戻る、というのが週課となっていました。
 このように煎餅は私にとって「按摩の日」を締めくくる食べ物だったのです。

 意外に思われるかも知れませんが、外で売っている食べ物を何でもかんでも試しに買って食べてみるということをあまりしない私としては、煎餅は珍しい存在。
 そんなこともあり、北京時代から9年の時を経て北京を再訪した時も、やはり食べたいものに、煎餅は挙がっていました。

 けれども周囲からの情報によると、煎餅の屋台は、最近あまり見かけなくなった、という声もあり、心配しておりました。
 街がキレイになり過ぎて、昔ながらの屋台文化も淘汰されてしまったのでは、と危惧しておりましたので、再訪の折も以前と同じスタイルの煎餅屋台を見付けた時は、本当に嬉しかったです。

 自転車の荷台の上に、簡単にガラス張りのブースで囲った小さな空間。そこで焼かれる煎餅は、生地のモチモチ感と、油餅のパリパリ感、辛味噌と香菜と葱の香りを卵で包み込んだ味のハーモ二ィとが混ざり合って、中国式ファーストフード万歳!なのです。

クレープに卵を落とし、ソースを塗って具を挟んで出来上がり。 2005年 北京

 日本の焼きイモ屋と同じく、夏は暑さのせいか、煎餅の屋台はどうやらお休みが多いようですが、2005年の冬にニューバージョンの煎餅屋台を発見しました。
 ピザ屋(因みに北京では必勝客・ピザハットが1992年には既に進出していました)にヒントを得たのか、トッピングを選べる煎餅屋台が、そこにはありました。

 屋台を営んでいるのは若いカップル。若者への受けを狙ってなのか、アイデアで勝負、の新しい屋台もツイほほ笑ましく眺めてしまう私なのでした。

トッピングが楽しめる、新スタイルの煎餅屋台。 2005年 北京


 ・・・以下続く

(※ 註:この記事は 2006.3.10 に掲載されたものを転載しています)

第二十五回 温暖化

北京
08 /28 2018
雪の万里の長城。それでも観光客は途絶えない・・・。 1991年3月9日

 2006年は、季節なりの寒さに見舞われていますが地球の温暖化は正に進行中なのだということが、声高に叫ばれだしてから、既に久しくなりました。

 気象予報士の解説を耳にして「ああそうね」と思ったり、変な季節に台風に見舞われたりする時などは、温暖化を意識するひと時なのではないでしょうか。

 北京でも、ここ数年そう云ったことが感じられるようになりました。
 降雪こそ多くはないものの、2~3月の北京は本来、まだまだ寒さの残る季節。
  
 1989年の2月に短期留学で北京に滞在していた折は、慣れない乾燥と大陸性の寒気のせいで、早々にヘバっていました。
 その後90年代初頭の留学時も、飲み物や野菜などは、この時期なら窓の外に出しておけば適度に冷蔵庫代わりとなったものですが、今はどうか知らん・・・。

 偶然なのですが、1991年の北京旅行と、2002年の北京旅行が、全く同じ3月8日~11日という日程だった、ということがありました。
 1991年には雪がちらついて、日本での恰好+@のいで立ち。ツアーで連れて行ってくれるから行ったものの、雪景色に染まった万里の長城にも登りました。
 一方11年後はどうだったか、と言いますと、旅行中の最高気温は平均16~19度。実際それよりも暖かかったような気がします。手袋もマフラーも要らず、景山公園では桜が咲いていました。
 11年差の同じ頃に雪と桜、の違いです

万里長城 2003年3月9日

 勿論、たまたまその年がそうだった、とか、たまたまその数日間がそうだったのかも知れませんが、現地の人に聞いても、この(2002年3月の)温かさは特に異常だ、とのことでした。
 その為か、この年は黄砂(砂嵐)が吹き始めたのも、通常より一月程早かったようです。もし渡航が一週間遅れていたら、対策も無しに現地入りして、間違い無く砂埃にまみれていたでしょう。写真比較どころではない、地球温暖化を体感してしまうところでした。


 ・・・以下続く

(※ 註:この記事は 2006.3.1 に掲載されたものを転載しています)

第二十四回 春節・爆竹

中国
08 /27 2018
盛大に、何発もの爆竹に火を点じる。 1992年 雲南 昆明

 中国の伝統行事は、旧暦に従って行われるのが主流です。
 日本でも旧暦で雛祭りをする地方があったり、旧盆の習慣があるように、中国も二十四節気(旧暦で云う、季節の区分。大寒や立秋もその一部)が現在でも人々の生活習慣に密着し、根付いています。

 例えば新暦の1月1日は、ただの休日で中国ではそんなに盛り上がりません。
 中国でお正月と云えば、旧正月、すなわち春節のことを指します。人びとが一年で最も楽しみにしているお祝いのシーズン。ここから彼らの新年は始まるのです。

 家の門におめでたい絵や文字の書かれた春聯や年画を貼り、爆竹を鳴らして、家族揃って正月番組をTVで楽しむ・・・というのが、典型的な中国のお正月スタイル。

 ここ10年ばかりは保安上の理由から、特に都会で爆竹を鳴らすことが、原則禁止されていました。ところが最近法律が改正され、条件付きながら爆竹が「解禁」になったのは、人々の春節ムードを盛り上げる一助になるのではないでしょうか。
 「解禁」は、2005年12月から施行されています。

 となると、又アレが復活するのか、と個人的には思わなくもありませんが・・・。

爆竹に関する警察のポスター 2005年 北京

 1992年の春節を、私は雲南は昆明で迎えていました。
 晦日にもなると、暗くなるのが待ちきれないかのように、町のあちこちで爆竹に火が点じられます。
 竿の先に長く垂らした爆竹が派手に鳴り響くのを、近所の人びとが取り巻いて見ています。賑やかな音で新年の幕開けを皆で祝うのです。

 しかし。祝うのは構わないのですが、特にこの日の夜歩きには気を付けないといけません。なぜなら、地上だけでなく空からも何が降って来るか分かりませんから。
 マンションのバルコニーから爆竹や、あろうことかロケット花火がシューッと飛び出す「奇襲」に見舞われたりして、結構危ないのです。・・・尤も今回の条例では、バルコニーや屋上で花火を発射したり、階下へ投げ落とす(!)ことは当然禁止となっていますが・・・。

 兎も角、晦日の晩は、本当に夜中じゅうどこかでバンバン鳴っていて、寝ていても爆音が耳に纏わりついたものです。
 初めての経験に、幸い行ったことはありませんが、戦場てこんなかな、と思いました。


・・・以下続く。

(※ 註:この記事は 2006.2.12 に掲載されたものを転載しています)

第二十三回 歌舞音曲紀行・ペルー篇

音楽・演劇 等
08 /26 2018
2003年 ペルー マチュピチュ

 高度障害のリスクをなるべく避ける為、ペルーの首都・リマで軽く身体を慣らしてから向かった古都・クスコにいよいよ到着した時、私は少なからぬ興奮を覚えていたに違いありません。

 「アンデス」という語で私などは単純にイメージしてしまう、フォルクロ-レな世界に、いよいよ突入だからです。
 何となく感じる空気の薄さすら、未知なる世界へ脚を踏み入れるワクワク感をかき立てるのです。

 着いた早々、何故か空港のターンテーブルの横で民族衣装姿の楽団が音楽を奏でてくれているのが、余計に旅情をそそります。
 しかし、空港のターンテーブルで楽団生演奏の歓迎(?)なんて、普通無いよな、とは勿論後で冷静になった時に思ったことです。

“ペルーの寺尾聡” 2003年 ペルー クスコ

 クスコ入りした夜、私たちは、フォルクロア・ショウに出掛けました。夕食をしながらの鑑賞です。

 ショウで彼らが主に使用する民族楽器は、名称が判らなくとも、その音色を耳にすれば「ああ、この音か」と思われるものが、少なくないのではないでしょうか。
 アシで作った笛のシークやケーナ。ケーナは古くインカ時代から伝わる楽器です。小型ギターのチャランゴには、アルマジロの甲羅を共鳴胴に使われています。
 インディアンハープとも呼ばれるアルパは、5オクターブもの音域を紡ぎ出すと云います。
 ボンボという羊や牛の皮を張った太鼓も、独特のリズムを刻む、大事な要素を担っています。

 アンデス地方で多くの人口を占めるインディオは、顔かたち、背格好が何となく我々と似ていて、親近感を覚えます。
 人種的には、中米(マヤ、アステカ)と共に、モンゴロイド系。陸の続いていた太古の昔に我々日本人とも繋がりがあった、という説も納得が行く話だワ・・・なんて思っていたら、ショウの出演者に寺尾聡さんのソックリさんを発見してしまいました。

 それはさておき、有名な『コンドルは飛んでゆく』をはじめとした、彼らの音楽は、本当に私たちの琴線に触れるメロディー。素朴な民族性がよく現れているからでしょうか。

人形みたい・・・。 2003年 ペルー チチカカ湖

 翌日は旅のハイライト、マチュピチュ行きを控えていたのですが、この夜の音楽は、そのまま観光のヤマ場を迎える序曲となったのでした。


・・・又「玉手箱」でお会いしましょう!

(※ 註:この記事は 2006.2.4 に掲載されたものを転載しています)

第二十二回 歌舞音曲紀行・ベリーダンス篇

音楽・演劇 等
08 /25 2018
民族舞踊ショーにて。 2005年 モロッコ マラケシュ

 2005年の夏休みで出掛けたモロッコで、ベリーダンスを観る機会がありました。

 夜遅いディナー後のショウ・タイムだったのですが、他の欧米人観光客も含め、それまで眠たそうにしていた皆が、豹変。踊り子さんは、一身にフラッシュを浴びていました。

 やはりビキニに腰布を覆ったような衣装や、エキゾチックな姿態に民族楽器が奏でるミュージック、となれば誰でもそのムードに惹きこまれることでしょう。

 アメリカや日本で稽古事や健康法の一つとして人気を集めているのとは別にして、この民族舞踊は随分と広い地域で踊られていたのだな、と思わざるを得ません。

 私自身数えればモロッコ、ギリシャ、トルコ、ロシアで数々の“艶技”を堪能してきたことになります。

 モロッコでは、もう少し体つきも妖艶な踊り手だったらもっと良かったのに、とオジサンのような感想が残りました。
 ギリシャでは、近寄って来た踊り子さんが結構オバサンで驚きました。
 トルコでは、バザールにベリーダンスの衣装がずらーっと並べて売っているのに、その浸透度が伺えました。
 ロシアでは、気恥ずかしくて折角用意したチップのお札を、胸や腰に挟んでやるのではなく手渡しをしてしまうという野暮をしでかしました。

1997年 ロシア モスクワ

 それはさておき、調べてみますとベリーダンスは、その起源に諸説あります。砂漠の民ベドウィン族の踊りや、エジプト、中近東のアラブ諸国の王宮に伝わる舞踊から発祥した、等々です。

 現在ベリーダンスの本場というイメージの強いトルコでは、オスマン・トルコ時代にインドから音楽家や舞踊家を招聘して、宮廷の芸能人が学んだとされています。この舞踊にはインド舞踊の要素が採り入れられている、とも言われている所以です。

 又、風土的に見れば、砂の上ではステップや跳ねる動きが取り難く、よって地に足を付けた、限られた状態で踊る為に、腰や胴体をくねらせるなど、女性の体型を活かした独特な動きが生まれたのだろう、とされています。

 ヒトが全身を駆使して、その心情や感動を伝達する表現方法の一つである舞踊の原点を、ここにも又見ることが出来ると思います。


・・・次はペルー篇!!

(※ 註:この記事は 2006.1.26 に掲載されたものを転載しています)

第二十一回 歌舞音曲紀行・北朝鮮篇

音楽・演劇 等
08 /24 2018
万寿台芸術劇場 1991年 平壌

 北京時代に、機会あって北朝鮮を旅行しました。北京在住の日本人を当て込んで、中国の旅行会社が企画した、最初のツアーでした。

 現在は日本からも商品としてツアー旅行が出ていますが、制限や事情による内容変更も余儀なくされているのが現状なようです。参加された皆さんの満足度はどうなのでしょうか。
 でも、少なくとも現時点においてはそう簡単に行ける国ではなく、きっとそうした不測の事態をも、旅の良き思い出になさる方が大半ではないでしょうか。

 私たちの北朝鮮ツアーも、初日から予定に組まれていない行程が、入国早々に伝えられました。

 それは夕食後にコンサートを鑑賞する、というものでした。
 マ、そういうことなら・・・と、異論も無く連れて行かれたのは、平壌市内の万寿台芸術劇院。
 夕闇に白くそびえる大劇場を、入国したばかりで未だ緊張のほぐれないままに、キョロキョロしながら入場したものでした。
 誘導係として、チマ・チョゴリ姿の綺麗なお姐さんが、劇場入り口に立っていました。
 ボーっと見とれていると、その胸には金日成主席バッジが。やっぱりココは北朝鮮なのでした。

 公演は、歌、舞踊、演奏が多彩に組み込まれて、あっという間でした。
 後で聞きますと、全ての演目は一貫して、金正日総書記(ポスト名は現在)を称える内容で、一つのストーリーになっている、とのことでした。
 そう言えば確かに、金総書記が生まれたとされる白頭山中の丸太小屋を背景にした、ヴァイオリンの演奏もありました。曲目は分かりませんが、きっと金総書記誕生の物語を描いた曲だったのでしょう。

 しかし、やはりと言いますか、外国人にも自信を持って見せるだけのことはあります。
 彼らの水準が相当なものだとは、シロウト目(耳)にも判りました。
 恐らく国が総力を以って人材を選別、徹底的に英才教育を施した結果の一つがこれなのだと思うと、是否はともかく、教育というものの凄さ、大事さを思わずにはいられません。

舞踊『祖国のつつじ』 金正日書記とともに祖国三池淵に帰り着いた喜びを唱い上げている。 万寿台芸術劇場 1991年 平壌

 ごく普通の家庭に育った日本人の子供が、妙な平等意識を主体にした教育の元に「フツー」である、或いは「没個性」などと嘆き半分で称されているのは、これ又現在における日本の教育姿勢の賜物なのであります。
 そうは言っても、後々他より抜きん出た才能で世の中に貢献する人や、個性的とされている人が、そういう処から出て来ることだって少なくないのですから、捨てたものでもありません。

 ヒトはどうとでもなり得る恐ろしさがありますが、一筋縄で行かない面白さもある。だから人間、なのでしょうね。     


・・・次はベリーダンス篇!

(※ 註:この記事は 2006.1.19 に掲載されたものを転載しています)

第二十回 歌舞音曲紀行・ハンガリー篇

音楽・演劇 等
08 /23 2018
.ハンガリー ブタペスト 1998年

 良し悪しはありながら、短い時間の中で比較的効率良く廻れること、等々の理由から、我が家では海外旅行には殆どツアーを利用しています。

 ツアーには、伝統的な民族舞踊や楽器の演奏が楽しめる、フォルクロア・ショウが用意されていることがあります。その土地の民族性や特色を誰にも分かり易く紹介する手段の一つとして打ってつけですし、何より目先が変わって楽しいアトラクションとなります。

 これ迄色々見て来たショウで忘れられないものに、ハンガリーでの思い出があります。
 ホテルの夕食レストランには、民族衣装に身を包んだ楽団がスタンバイしていました。楽団、と言っても男性ばかり4名のユニットで「ブダペストの玉川カルテット」なんて勝手に名付けていました。

 「カルテット」の皆さんは、各テーブルを廻りながら色んな音楽を奏でて行きます。日本人のテーブルだと、『さくらさくら』などが、御馴染みのナンバーのようでした。

 場慣れしている欧米の観光客などは、好みの曲目をリクエストしています。そういう時は特別に演奏して貰うのですから、チップをはずみます。

 そんな彼らの向こうを張ってか、同席の母が『ツィゴイネル・ワイゼン』をリクエストしたのには、正直ちょっと唐突で、驚いたものです。

観光地でフルートを吹く女性 ハンガリー エステルゴム 1998年

 しかしあちらはご商売につき、合点承知とラストまで高らかに弾きこなしたのは、お見事。当然、場は大いに盛り上がったのでした。

 思えばハンガリーも常に周辺国からの圧力に晒され、歴史の波に揉まれながら今の平和を勝ち取った国。その背景に思いを馳せると、時にもの哀しく、時に力強い曲調が心に響きます。素晴らしい演奏でした。

 ところで、チップを渡す時はさり気なく。これも多くの日本人がスマートに出来ない行為の一つです。
 目と目を合わせても、お互い手の方は見ないでさり気無くこなすなら恰好が良いのですが、なかなか上手に出来ない。でも大概は、あちらはプロなので、モタモタしているこちらに合わせてスーッと手を出して呉れ、サーッとポケットに仕舞いこむ。勿論、その場で金額を確認するなどという野暮もしません。

 チップに関しては私も反省ばかりですが、この時は一寸上手くいったような気がします。
 面白かったのは、額もそれなりとは云え、コインばかりで失礼かと思いつつ間奏中にそっと渡したチップが、見なくても手の感触で解ったのでしょう。目を白黒、グルグルさせて嬉しさ(?)を、何ともユーモラスな仕草で見せて、又演奏を続けたのでした。
 プロフェッショナルな彼らに敬服し、最後まで本当に楽しい晩餐のひと時でした。


 次は北朝鮮篇!

(※ 註:この記事は 2006.1.1 に掲載されたものを転載しています)

第十九回 クリスマス 

北京
08 /22 2018
北京大学の寮内では時折パーティーを開いている。この時は誕生パーティー(生日快楽)とある。音楽と踊りで熱気ムンムン。 1992年 北京

 日本人同士は勿論、世界各国から集まっている留学生の間で料理を持ち寄っての食事やパーティも、留学時代の楽しい思い出です。
 ここぞと言う時には自国から持参した、文字通り「貴重品」を振舞ってくれることもあるので、そういう楽しみも寮生活ならではでした。

 誰それの誕生日だとか、国の祭りの日だからとか、キッカケは何だって構わないのです。
 パーティともなると、誰が話しを付けるのか、それとも勝手にやっていたのか、寮内の空き教室がパーティ会場に変身。料理あり、音楽あり、そして誰彼ともなく踊り出したりで盛り上がります。こういうノリに疎い私としては、パーティ慣れしている欧米人留学生を見習って色々と勉強した積りなのですが、果たして身に付いているかどうか・・・。
 そしてクリスマスには勿論、クリスマス・パーティです。

 年が押し迫ってきますと、街もクリスマス一色になります。
 真夏でも建物の縁に延々と電飾が施されるなど、元々電飾が好きな民族性?も手伝って、ホテルのロビーやデパートと云った人の集まる所には趣向を凝らしたクリスマス・ディスプレイが見られてなかなか楽しいです。
 輸出用に作られている、木製のオーナメントや、クリスマス柄を刺繍したテーブルクロスなども安いので、ついつい買い込んでしまいます。

北京のクリスマス。燕沙商場(ケンピンスキー・ショッピングセンター前)。 1991年 北京

 北京でアメリカンクラブ主催のクリスマスバザーを覗いたことがあります。
 ミッション系やアメリカンスクールにでも通っていれば、日本でも機会はあったのかも知れませんが、思えば外国人がクリスマスの準備で行っている、この類の催しには初めて参加したのでした。

 手作りのクッキーや手芸品を買って、にわかクリスチャン気分も高まった頃、サンタ・クロースが登場!大喜びで群がる子供達に混じって、私もサンタさんと写真を撮り、ご機嫌。

 イイトコ採りばかりのようですが、こうして異国でのクリスマスも、しっかり堪能していたのでした。


・・・以下続く

(※ 註:この記事は 2005.12.24 に掲載されたものを転載しています)

第十八回 チケット

中国
08 /21 2018
サザン北京公演のポスター。「サザン・オールスターズ=南天群星」 そのマンマ。 1992年 北京

 ミュージカル『チンギス・ハーン』を観た年は、日中国交正常化20周年で、北京では沢山の交流行事が開催されました。

 その流れに乗じて、私も色々な催しを観に行きました。日本からも、松山バレエ団の『くるみ割り人形』や、劇団四季の『李香蘭』、サザンオールスターズのコンサート等々、一流の芸能を観る機会が目白押しでした。

 サザンのコンサートチケットを連絡事務所に買いに行った所、特典で特大のコンサート用のポスターとオリジナルTシャツを呉れました。
 ポスターはファンだと云う知人に差し上げてしまいましたが、多分Tシャツは未使用のまま自宅に遺っています。これってプレミアム付くか知らん・・・。

 チケット購入の方法も、昔と今では大分変化を遂げました。現地に駐在している友人の話を聞きますと、本当に驚きます。
 昔は、前述のように公演事務所や劇場窓口などへ赴いての、直接購入が普通だったかと思います。情報も、新聞や日本人会の会報あたりが、せいぜいの情報源。
 対して今や、日本人向けにチケットの取次ぎをする業者が複数存在し、インターネットや電話で予約が可能。希望すればオフィスや自宅まで配達までしてくれるというのです。
 座席はコンピュータ管理されていて、空き状況も即座に判明、というのが当たり前。情報源は、TVの芸能情報番組、広告を載せたラッピング・バス、と手段も様々です。
 その他日英韓各国語版でフリーペーパーが何誌もあり、各種イベント、レストラン情報の取得に苦労は無いというのは、北京でも上海でも、同じなようです。

 さて、話が『チンギス・ハーン』に戻りますが、もう一つ忘れられない思い出として、その時私の席隣に座られたのが、何と愛新覚羅顕琦さん(「男装の麗人」として有名な川島芳子さんの実妹。著書に『清朝の王女に生まれて』)。歴史ファンの一人として、その偶然はとても嬉しいものでした。

バレエ『くるみ割り人形』フィナーレ。中央は森下洋子、清水哲太郎のハズ。 1992年 北京

 因みに私がその日座っていたのは、忘れもしない7列目の1番。7列目の中央です。チケットを購入しに行った時、一つも席が埋まっておらず「何処でもいいヨ」と言われました。じゃあ一番良い席にして頂戴、と貰った席でした。

 中国の座席の番号は、日本のそれよりも大変判り易くていいな、と思います。真中が1で、左右に2、3、と交互に定められています。劇場の大小に関わらず、番号が若いほどセンターに近いことが判るので、席の位置を知る目安になります。席に着く時も、単号(奇数)と双号(偶数)で左右の入り口が分かれているので、合理的。
 この席番号の付け方は、日本にも導入してはどうか、とずっと思っているのですが、未だ見たことはありません。


 ・・・以下続く

(※ 註:この記事は 2005.1218 に掲載されたものを転載しています)

第十七回 フラワーギフト 2 

北京
08 /20 2018
 現在は姿を消したようですが、1992年、北京大学にも生花店がお目見えしました。

 でも、花屋なのに暗いしつらえで、扱っている品種はそう多くなく、それよりも学校に花屋カイナ、という感じで、当初は冷静かつ遠巻きに見ているだけでした。

ミュージカル『チンギス・ハーン』より。日、中の俳優合作らしく、京劇の所作も盛り込んで、イキもピッタリ。 1992年 北京

 ところが程無く、私もこの花屋の門をくぐることとなったのです。日中合作のミュージカル『チンギス・ハーン』を観ることになった為です。
 主演は松平健さん、大地真央さん。日本でもそう滅多に観られない、ビッグカップルの共演を北京で拝見出来るという興奮ついでに、是非とも主演のお二人と握手をしよう!という目論見が生じたのでした。

 それには花束じゃ、と同じ北京大学に留学してきた後輩と相談し、当日行って買えないと困るので、と事前に予約する周到さ。と言いますか、開店早々で、未だちゃんと商売が出来るのかの疑問もあってのことです。中国の店頭で、そこに品物があるのに「没有!(ないよ!)」と言われた類の昔話をお持ちの方は少なくないでしょうから、その辺の意図は汲んで頂けるものと思います。哀しき経験(?)の積み重ねがそうさせる、念の入れようでありました。

 華やかなスターのお二人に、ということで、花はバラをセレクト。後輩が白いバラを松平さんに、私が赤いバラを大地さんにと決め、リボンもかけてね、とシッカリ念押ししました。

 さて当日。こちらの心配をヨソに、花束はちゃんと用意されていました。疑ってゴメンネ、です。
 注文どおりの白いバラと、赤いバラ。どちらも片面が透明の袋に見栄え良く入れて、袋の口にあたる、下の方をリボンで結んで留めてありました。花に上から袋を被せるというのは、初めて見ました。包装の仕方にも日中の違いがあるようです。

ミュージカル『チンギス・ハーン』のフィナーレ。主演のお二人の手には花束が。因みにチンギス・ハーン役は松平健さん(中央)。その母親役は菅井きんさん(左三)。 1992年 北京

 しかし果たしてその作戦は、・・・見事成功!!めでたく二大スターとの握手に成功したのでした。
 大地さんが私に手を差し出して下さった時のお顔。美しさに顔が眩むというのは、こういうことか・・・。スターのオーラは、本当にパワーがあるのですね。

 今でもバラの花を見かけると思い出す、エピソードの一つです。


 ・・・以下続く

(※ 註:この記事は 2005.12.9 に掲載されたものを転載しています)

第十六回 フラワーギフト 1 

中国
08 /18 2018
自転車の花売り。竹筒に花を挿して、如何にも中国。でもこの頃、北京にはこういうのすら無くなっていた。 1993年 四川

 花を贈られれば、女性なら誰でも嬉しいものでしょう。

 花の種類(菊は葬式を連想させる花だから×とか)などに注意すれば、大体において、万国共通無難にして喜ばれるギフトではないかと思います。

 中国でも花を贈るのは、もはやそう珍しいことでもないようです。クリスマスやバレンタインには男性が女性に花を贈るので、大量の生花が消費されると云います。
 高級レストランやホテルでは出入りの花屋や、専門部署が花のディスプレーを受け持っているとのことですし、上海では、日本人のフローリストが活躍なさっているという記事を読んだことがあります。

 それでも90年代初めの中国では、生花をギフト用に入手するのは、まだ一般的ではありませんでした。
 まず花屋という店舗自体が見当たらない。外資系ホテルのアーケードにもあったかな、という感じでした。

 しかし一般市民の間に、伝統的な盆栽や、鉢植えを育てているお宅は勿論ありましたから、当時の人びとの生活が花や緑に無縁な生活だった、というのでもありません。又、祝日などには街角に「草花芸術」が登場します。その園芸装飾技術(?)は、感心に値するものです。

作家、老舎の故居の中庭。自然を愛する家人の気持ちが伝わってくる。現在は紀念館として整備されている為、かっての面影は無い。 1993年 北京

 切り花を活けて楽しんだり恋人や家族に贈ったりという、西洋風の生活パターンが定着したこと、生花を栽培出荷する技術や輸送経路の発達が、この十余年間にもたらした変化、と言うことが出来るでしょう。

 北京や上海に在住の知人によりますと、現在では病院の近くに、患者へのお見舞い用に花屋が軒を連ねているのを見ることが出来るそうです。因みに昔は、見栄え良く籠に盛った果物が、最も気の利いた見舞い品でした。

 市民にとって今でも一般的なのは、小売りの花屋よりも、花卉を扱う卸売市場(同じ敷地内に、ペット用の魚や、鳥なども商うテナントが一緒になって「花鳥市場」なるものも存在します)で、そこで花を求める人が多いようです。


・・・以下続く

(※ 註:この記事は 2005年12月に に掲載されたものを転載しています)

第十五回 中国人学生食堂 3

北京大学
08 /17 2018
北京大学構内で開かれた絵画展。昼休みなので鑑賞しつつ立ったまま昼食を摂っている人。見えます? 1993年 北京

 食事は、食堂内のテーブルで摂ることも出来ますが、食器を返却する必要が無いので、屋外や寮の自室に持ち帰って食べる学生もいます。

 一刻でも早く口に入れたいのか、立ったたまま、もしくは歩きながら(!)食べてる光景を見かけることもしばしばで、これには驚きましたが・・・。

 各食堂には、それぞれ学一食堂、学二食堂・・・と少々味気無い名前が付けられていました。
 近年北京大学を再訪した折も、その名称は変わっていませんで、ストレートなネーミングがレトロな感じすらしますが、中身は改革が進んでいるようです。
 椅子やテーブルは新しいデザインのものに変わっていましたし、今では食券の他に、プリペイドカードも導入されているそうです。

 又、料金は高めな設定だと思いますが、元々の学生食堂が進化したような、お盆や食器を返却する、キャフェテリア方式と云うのでしょうか、雰囲気もオシャレで新しいタイプの食堂が近年登場しています。

昼食の包子をほおばりながら。北京大学構内の絵画展にて。 1993年 北京

 留学生が中国人学生食堂を利用したい場合、利用は可能でしたから、例えば、学三食堂で朝食にだけ出ている肉包子(ロウパオヅ・肉まん)を食べたいが為に、頑張って早起きをする留学生もいました。
 きっと中国人学生にもそれぞれ、ご贔屓の食堂、或いはメニューがあるのではないかと思います。

 因みに私は学五食堂のピーナッツ餡入り焼き菓子が、大の気に入りでした。それだけを買いに、脚を運んでいたものです。
 あれは是非とも、今一度お目に(?口に?)掛かりたいメニューの一つです。

北京大学構内で。 1993年北京


・・・以下続く

(※ 註:この記事は 2005.11.21 に掲載されたものを転載しています)

第十四回 中国人学生食堂 2

北京大学
08 /16 2018
2002年頃の北京大学中国人学生食堂。いまはもっと様子が変わっているかも・・・。 2002年 北京

 学生食堂では窓口がずらりと並んでいて、自分の食べたい物を出してくれる所に並びます。

 窓口付近にそこで供されるメニューが書き出してあるので、幾種類もの惣菜を食すのならば、窓口のハシゴとなります。

 大抵は米飯か、饅頭(マントウ・餡無し蒸しパンの一種)等の主食を選択し、続いて惣菜を選択するのが順序。
 主食に米飯を選んだなら、その上に惣菜をかけるのが、一般的なスタイル。
 惣菜は炒め物が中心で、食材は野菜、卵、豆、キクラゲなどの乾物、ハムを含めた肉類・・・、と豊富。味付けも、醤油、塩、味噌、ケチャップ(トマト?)味等々、バラエティーに富んでいました。

 ただ、北京という土地柄、魚類は泥臭い川魚が多く出回っていて調理に手間取るせいか、学生食堂のメニューにはあまり登場していないようでした。

 見た目はさておき、いずれも温かい内は美味しく食べられるものですし、栄養の偏りにさえ注意すれば、学食生活も悪くありません。

 更に食べ足りなければ、焼き菓子や揚げ菓子も売られているので、テイクアウトしておやつに食べるということも可能です。

北京大学中国人学生食堂裏。冬になると備蓄の白菜が積まれている。 1992年 北京

 飲み物は、ジュース類は買えますが、お茶は無し。
 日本の外食風景には、ヤカンかポットが机の端に置かれていてお茶はご自由に、というのが自然なイメージとして浮かびます。けれども中国では食事中にお茶を飲むことは、少ないような気がします。
 しかし近年、日本発でお茶のペットボトルが中国国内でも発売されて結構な普及率ですから、現在は売られているかも知れません。

 食事が終わると、食堂出入り口近くに残飯入れと、流し場があるので、そこで食器をキレイにして食堂を後にする、というのが大まかな学食利用の流れとなります。


 ・・・以下続く

(※ 註:この記事は 2005.11.13 に掲載されたものを転載しています)

第十三回 中国人学生食堂 1

北京大学
08 /14 2018
北京大学構内を撮影 2005年 北京

 中国の大学は、敷地内に生活に必要な施設が大抵備わっているので、学生の食事についても、学生食堂が完備されています。
 北京大学では学生食堂も寮と同じく、中国人学生用と留学生用が、別に建てられていました。

 他校では食券制でなかったり、留学生の少ない大学では、寮も食堂も、中国人学生と一緒の所もあります。
 学食のみならず、その他の施設もそうなのですが、大学によって細かい状況は異なります。ここは一つの例として捉えて頂ければ、と思います。

 北京大学の中国人学生食堂は、数軒が広い構内に点在しています。

 学生食堂の利用に必要な物は、食券に、あとは自分の食器。
 プラスチック製の食券には金額が印刷されており、お金と同じように使います。
 自前の食器としては、ホウロウ製の、洗面器を小さくしたような碗と、揃いの皿。碗は火にかけて温める鍋にもなりますし、皿は蓋にもなるので便利です。これに箸かスプーンで基本セットとなります。
 女子学生などは教科書の入ったカバンの他に、この基本セットを手製の巾着袋に入れて、食前の授業に出席したりするのです。

北京師範大学附属実験中学校の廊下にて。栄養バランスや健康について説いているポスター。 1992年 北京

 何と言っても一時に大勢の食事を賄うので、食堂側としては作るのと、釜から惣菜をよそうので精一杯。よって食器を準備して洗って、までは手がらない、ということか、はたまた、衛生面は学生各自で責任を持つように、ということか・・・。

 学生達は時間になると、寮や教室から自転車(授業の移動にも活用)や、徒歩で食堂へ赴いて食事を摂りに行きます。


 ・・・以下続く

(※ 註:この記事は 2005.10.25 に掲載されたものを転載しています)

第十二回 エコロジー 1 

中国
08 /11 2018
四川のよろず屋 町のよろず屋。店の左の柱には有料の手さげ袋と網兜儿が見える。 1993年 四川・成都

 通常の会話や文章に、ヤタラと横文字を使うこと抵抗を感じる方も多くいらっしゃるでしょうが、さすがに「エコロジー」は、既に定着した横文字の一つではないでしょうか。

 生態学、よりは自然環境保護運動、の方が一般的には認識度の高い意味かと思われます。
 最近、日本ではスーパー等で買った物を入れてくれる手提げビニール袋を有料に、の動きが出ています。既に自主的にそうしている所もあるようで、それこそエコロジーの観点から法制化も含め、今後この動きはより活発化するのでしょう。

 袋の持参は、面倒だけれど仕方が無い。でも慣れればそんなにどうってこと無い。
 TVで関連の街頭インタビューを見ていると、袋持参を実行されている方の大体は、このような意見でした。
 編集の都合で省かれたのかも知れませんが、どなたからも「昔に返るだけ」の声は聞かれませんでした。当たり前過ぎる極論だからでしょうか。

 中国では、昔は袋の有料が当たり前でした。
 私が北京大学に在籍していた折には、買い物用で自室に網兜児(ワンドー)という、網目状の袋をぶら下げていました。日本では、スイカを入れるのに使われるかな、というものですが、これは網み目が伸びて、かなり大きな物も入るので便利です。
 とにかく、買い物には袋持参で。これが普通の感覚でした。

 ある時、自転車で通りがかった露店で持参の袋に品物が入りきらず、その分を店のビニール袋に入れて貰ったのですが、帰り道でのこと。

北戴河の干物市場 いかにも薄そうなビニール袋。 1993年 北戴河

 ハンドルにぶら下げたリンゴ入りビニール袋の手提げ部分が、その重さでみるみる伸びてくる!すぐに自転車を止められない車道だったので、焦るアセる。
 「わー!待ってー!」叫びながら減速したものの、結局は間に合わず、自転車を降りるか否かの差で、哀れ袋はぶち切れ、ドンッ(=中味が落ちた音)、ゴロゴロ・・・とリンゴは方々に転がって行きましたとさ。

 有料のクセに、薄くて重さに耐えられないような袋。それでも文句を言った所で、どうせどうにかなる訳で無し。しかも、こういう時に限って中身がネギやほうれん草でないのが、ミソ。
 一寸恥ずかしく、してやられたような、泣き笑いの秋の空、でした。


 ・・・以下続く

(※ 註:この記事は 2005.10.19 に掲載されたものを転載しています)

第十一回 寮生活

北京大学
08 /10 2018
北京大学留学生楼「勺園」 2002年 北京

 北京大学の学生寮は、中国人学生用と留学生用に分けられています。
 両者の設備条件は随分と異なるようで、留学生は不自由な外国生活とは言え、かなり優遇されていた筈です。

 寮の提供は、元々外国人に限らず、住まいを得ることが困難だった中国の住宅事情も絡んで、こうした便宜が生み出されたと考えられます。が、それでも最近はその様相も大分変わっているようです。

 近年では逆に、膨れ上がった留学生の数に寮の部屋が足りず、又は寮生活を嫌う等の理由で、留学生が学外に住まうことも暗黙に了承されているのが実情とか。
 開放地域内ですら、外国人の動向に規制があった時代を思えば、随分と変わったものです。

 北京大学の留学生寮のには色々な部屋のタイプがありました。
 一人部屋、二人部屋、3間の個人部屋に共有のリビングが付いているタイプ、家族連れの研究者などが滞在する、ホテルのようなタイプ、等々。

勺園の部屋  自分では極力おさえた道具類。でも雑多・・・。その後このスペースに冷蔵庫、TV。ビデオデッキ、掃除機・・・と加わって行くのです。 1992年 北京

 私は二人住まいの部屋に、スイス人、イタリア人と、それぞれ1年ずつ暮らしていました。
 寮生活は、学生生活での基本を担うもの。当初は赤の他人、しかも外国人との居住に関して、色々な面で不安を感じました。が、少なくとも私たちは大きなゴタゴタも無く、その友情は今日まで続いています。

 一緒に料理を作ったり、お国自慢をし合ったり。勿論それなりに勉強もしましたが、良い人間関係に恵まれた、楽しい毎日でした。

 学生生活における、様々な地域から集まった人たちとの触れ合いの中で自分が特に感じたことと言えば、私たち日本人は自国の文化をもっと誇っても良いのではないか、ということでした。

勺園の部屋  生活用品のほぼ全てがこの範囲に置いてある。壁には部屋を訪れた人(含 外国人)との話題作りの為に色んな写真を貼ってみた。 1992年 北京

 彼らが誉め上手な部分があるにしても、日本の食べ物や着るもの、使っているモノにしても、本当かな、と戸惑うほどの賞賛を受けるとコチラも悪い気はしません。禅など、精神的分野への関心度も高い。
 当然そうでない人もありましょうが、概ね皆日本に対して、何らかの興味を持っている、と私の目には映りました。

 礼節や、伝統的な技術や考え方、歴史・・・自分たちの文化に自信を持って大切にしてゆくべきだと、そういうことも学んだ、寮生活でした。


 ・・・以下続く

(※ 註:この記事は 2005.10.7 に掲載されたものを転載しています)

第十回 国慶節

北京
08 /09 2018
今や日本より連休の大型化が進む中国。 長い休みを前に市民も何となく心浮き浮き? 国慶節の前後は街がきれいに飾り立てられる。1991年北京

  旧暦でお祝い事をすることが多い中国の祝日ですが、現代中国人の大切な日の一つ、国慶節は毎年、新暦の10月1日となっています。

 建国記念日であるこの日は、学校や企業が一斉に休みとなります。
 大型連休化が進んでいる中国なので、休みの長さは一週間かそれ以上の所も現れました。
 春節(旧暦の新年)やメーデーに並び、中国と取引きのある外国企業は、この時期何らかの影響を受けている筈です。

 国慶節休暇の期間中は、外食や行楽に出かけるなど、各地で楽しく過ごす姿が見られます。
 北京の天安門広場は毎年、花や噴水などで美しく飾り付けされ、そのディスプレーを見物しに訪れる市民や観光客で賑わっています。

初々しいカップル。現在の結婚パーティーはもっと派手☆ 友人の結婚パーティーに招かれて。 1992年 北京

 休日ということに加え、この記念日にあやかって入籍や結婚披露パーティをする中国のカップルも多いようです。

 私もさる年の10月1日、友人の披露宴に招待されたことがあります。

 当日は新郎である友人が、朝から新婦を迎えに行き、二人で新居に入ります。そして新居を見に来ている(「看新房」という習慣)近所の人や友人に、用意してある飴やチョコレートを口に運んでもてなしていました。

 ちなみに中国語で「あなたはいつ、私に飴を食べさせてくれるの?」と問えば「結婚するのはいつなの?」のセリフと同義。飴を食べさせてあげる行為は、幸せのお福分け、に通じるのでしょう。

 そして時間になると、皆で移動。街中のレストランを借り切って、親戚一同、友人、会社の人たちを大勢招いての、大披露宴が行われました。

 披露宴で供される食べ物は、特に決まっていない、とのことですが、中国では食べ物に限らず、縁起の良いモノを同じ発音のモノに転じて表すことが多いので、このような席でのメニューも自然、おめでたい名前のメニューが並ぶことになります。

 食材も同様で、例えば豚(中国語では「猪」と書きます)は、同じ発音の「畜」(ヂゥ)とかけた、好例。
 魚も「余」(ユィ)に通ずるので、お祝いの席にはよく出される食材です。生菜(シォンツァイ・レタスのこと)は「生財」、髪菜(ファーツァイ・もずくの一種)は「発財」に、と共に財を成すという意味で縁起を担ぎます。
 いかにもお金儲けが上手な、中国人らしい発想です。
 こういう目で宴席のテーブルを覗くと、ただのご馳走では無くなるのが、中国料理の面白い所です。

国慶節にちなんで結婚パーティーを行うカップルも多い。花嫁を迎えに行って新居に帰ってきた車。 1992年 北京

 近年、日本のような専門式場がお目見えして選択肢がどんどん広がり、中国のカップルたちも随分迷わされるような時代となりました。
 しかし時代変われど、場所がレストランや自宅であろうと、いずれにせよ気前良く大判振る舞いをし、皆に祝って貰う形式には、変わりが無いようです。


・・・以下続く

(※ 註:この記事は 2005.10.1 に掲載されたものを転載しています)

第九回 ノート

北京大学
08 /08 2018
北京大学の入学手続き風景 1992年 北京

 北京大学の授業は、午前4コマ、午後4コマ、そして夜2コマ。夜の授業が終わるのは9時過ぎです。

 人気講師の授業は、夜の授業時間でも教室から学生がはみ出す程。
 学内の図書館も、中国人学生がビッチリと席を陣取って、夜遅い閉館時間までねばって、皆頑張っています。

 特に地方から出て来た学生は大概、故郷の期待と誉れを背負って進学しているでしょうから、彼らから見れば私など、甘チャンもいいところだったのではないでしょうか。
 最近はそうでもないでしょうが、入学したらもう安泰な「トコロテン方式」に浸った日本の大学生とは、随分異なるのです。
 彼らを見ていると自然、学生の本分、という言葉が頭をよぎります。

 実際一緒に机を並べていて、へえー!と思ったのは、中国人学生のノートのとり方でした。

 私が受講していた授業の形式は、学生の質問や発言は後で受け、まずは講義を聴いて、というのが殆ど。
 通常我々がノートをとる時は、自分なりにポイントを整理しながら箇条書き、が多いでしょう。一方、中国の学生たちは、まるで速記者の如く先生が話す端から、講義内容を一語一句洩らさないよう、どんどん書いていっていました。
 それとも授業中はそうしておいて、後で復習の時に自作ノートを密かに作っていたりして・・・。

 想像はさておき、私は講義のレベル以前に言葉の問題も大きかったので、この「速記ノート」をお借りすることが幾度かありました。彼らのノートは流れるように崩して書いてあるので、非常に読みづらかったのを覚えています。

 因みに彼らの筆記用具は万年筆かボールペン。鉛筆は、中国ではせいぜい小学生までが主に使うものなのだそうです。

北京大学構内の掲示板(三角地) 昔も今も学生自治の中心地 2002年 北京

 皆が皆、ガリガリとノートにしがみついて書いている様を思い浮かべると、何となく可愛げが無いようですが、しかしそこはソレ。オツムが良いコは、要領もやはり良い。
 前の席に座っている学生のノートを借りて休み時間にサーッと書き写して済ませたり、何人かで組んで交替でノートをとっているグループもいるはで、真面目一辺倒ばかりでないのが、なかなかに面白い。

 結局人間色んな人はいるし、考えることはいずこも同じ、なようです。


 ・・・以下続く

(※ 註:この記事は 2005.9.26 に掲載されたものを転載しています)

第八回 キャンパスライフ

北京大学
08 /07 2018
北京大学の「赤門」。観光名所のひとつにもなっているのか、門の左側にも写真を撮っている女の子達が見える。 2002年 北京

 中国の学校は、欧米と同様、9月に始まります。
 基本的に学生生活は月曜から土曜まで、カリキュラムに沿った授業を受け、日曜は休日、冬休みと夏休みを間に挟み、前後期末にそれぞれ試験が行われるというサイクルで一年を過ごすのです。

 中国の大学は留学生だけでなく、中国人学生、教師も皆、構内で大学側が供給する環境で生活するのが基本でした。教師は一家で官舎に住み、学生は寮生活です。
 教育施設に必要な教室、視聴覚室、図書館は勿論のこと、住居、風呂屋、銀行、郵便局、雑貨店、映画館などの娯楽施設までがキャンパスの一角を占め、一つの街のように形成されています。これは日本の大学環境と大きく異なる点でしょう。

 中国の大学に学ぶ留学生は、中国語の学習をメインにしている語学研修生、各自の専門分野の研究を勉強する進修生、中国人学生と同じ、四年制のカリキュラムに則って勉強する本科生に大別されます。他にも芸術関係や武術、中医(鍼灸、漢方医学)方面の留学生も、少数派ながらおられるようです。

 私は1991年から2年間、中国政府奨学金留学生として北京大学は中文系という、日本で云う所の中国語・中国文学科の普通進修生として籍を置いていました。

 一応専攻は中国現代文学。
 現代文学の大作家、老舎に興味がありながら、さりとて本人は優秀な学生だったとは言い難く、学業面では大したことも出来ませんでした。

北京で開催された老舎学会の様子。 1992年 北京

 そのような個人的な引け目だけでなく、あくまでも自分が感じた雰囲気ですが、当時は1989年に起こった天安門事件の爪跡も完全には払拭されておらず、しかも国中の秀才が集う北京大学、ということで、最初の頃はかなり緊張して授業に出席したものです。

 が、フト気が付くと、机の下で英単語を暗記していたり、堂々としたところでは大きなヘッドフォンで音楽(或いは語学教材か)を聴いている、つまり内職をしながら聴講する中国人学生も見受けられたので、何となくホッとした記憶があります。            


 ・・・以下続く

(※ 註:この記事は 2005.9.2 に掲載されたものを転載しています)

第七回 思ひ出 2

知人・友人
08 /06 2018
 陳真先生には、その後私が北京へ留学することが決まった際「中国でしか出来ないことをして来て下さい」とはなむけの言葉を頂きました。
 その時其処でしか出来ないことを。それは確かに私のモットーとして、今でも私の心に刻まれている言葉です。

 私の北京滞在期間中は、先生にとっては日本と中国を往復する、最もお忙しい時期に当たっていたと思います。
 日本でのお仕事の他に、北京大学の漢語中心(語学研修センター)でも教鞭を執っておられました。

 北京大学のキャンパス内で先生に偶然再会した折には、遊びにいらっしゃいよとご自宅へ招んで下さり、後日お邪魔したことがありました。

 お住まいの、北京放送職員宿舎の場所が判り難いでしょう、と親切に行き方を教えて下さり、伺うとバルコニーで手を振って待っていらしたお姿が忘れられません。
 昼食を挟んで沢山のお話を聞かせて頂きました。戦前に暮らしておられた日本でのこと、中国へ帰国してからのこと・・・。

 自分の勉強不足を晒すようで何ですが、「定年退職する」という意味の中国語は通常「退休」と習うと思いますが、解放前に入党(革命に参加)した人の場合は「離休」と言うのだということを、先生のお宅で初めて教えられました。

.陳真先生のお宅へ伺った折のプライベート・ショット。 1992年

 先生は在宅時も、しょっちゅう電話が入って、お忙しそうでした。
 ある電話ではずっと日本語で、しかもかなりくだけた調子でのお話しぶりだったので、一体相手はどなたかしらと思ったら、姉上様からの電話とのこと。姉妹でも日本語で通すほど素晴らしい日本語なのに、ご本人はまだまだ、と仰るのには、本当に我が身が縮こまる思いでした。

 ・・・結局お会いしてゆっくりとプライベートなことをお聞きしたのはこの時だけで、もっと機会を持てなかったものだろうか、と今更ながら悔やまれます。

 本当に残念です。
 ご冥福をお祈りしたく、先生の初盆に一筆させて頂きました。

 ・・・以下続く

(※ 註:この記事は 2005.8.20 に掲載されたものを転載しています)

第六回 思ひ出 1

知人・友人
08 /03 2018
 2005年の年明け早々、悲しい報せが届きました。
 NHKテレビ中国語講座などで御馴染みでした、陳真先生の訃報です。
 北京放送時代からのファン、TV講座や、先生の著書などで中国語や中国の世界へ誘われた皆さん・・・、多くの方々がショックを受けられたことでしょう・・・。
 各々が先生との思い出を、それぞれにお持ちのことと思います。
 私にもここで少し、思い出話をさせて下さい。

 1991年、先生が来日されて恐らく最初のお仕事だった、NHKのテレビ講座で私は(名前だけはカッコいい)スタジオ・ディレクターのアルバイトをしていました。
 番組に使う小道具を用意したり、台本に沿ってテロップ(画面にかぶせる文字)を機械に組み込んだり、Q出し(出演者に話し出すきっかけを指示すること)をしたり・・・。
 色々あって面白かったです。

当時のNHKテレビ中国語講座のスタジオセット。たった数10分の番組作製に半日も掛かる!(取材を含めるともっとだが・・) 1991年 東京

 陳真先生を初めてスタジオで紹介された時は、流暢な日本語のせいだけでなく、本当に中国人なのかと心底オドロイタものでした(それまで目にしていた中国人のオバサン像とは大分異なっていたので)。

 当時の番組作りには、未だCGが導入されていませんでしたから、テキストの文章を音読練習する際は、ボードに書かれた文章を先生が棒で指しながら読んで行っていました。
 そういう時に、次のボードへフリップ(紙芝居のようにめくること)していたのは私(ともう一人の相棒)でした。

 先生は背の小さい方でしたから、用意した椅子の高さが間に合わず、道具方で木枠の台を作り、その上に椅子を載せて座っておられました。
 気を遣われる方で、他の出演者やスタッフの方と撮った写真を焼き増しして、丁寧に言葉を寄せて下さったのを覚えております。

 空色など青系の色がお好きだと仰って、衣装も地味めなのが多かったようですが、却って清潔感がそのままにじみ出ておられました。その上品な物腰に相まって、講座放映時は相当にファン層が広まったのでは、と思います。
 実際、服作りをしている私の母は中国語など一つもやりませんが、TVを観ていて先生にこんなのどうかしら、と衣装を作って差し上げたいことをよく言っていました。


 ・・・以下続く

(※ 註:この記事は 2005.8.15 に掲載されたものを転載しています)

第五回 トマト 2

食べ物・飲み物
08 /02 2018
ペルーの首都リマの市場にて。時期でないのかトマトがあまり見えない・・・。 2003年 ペルー リマ

 因みに、トマトの原産地は南米ペルー。
 大西洋を越えてやって来た征服者達が、金銀財宝のついでに自国に持ち帰った作物の一つでした。 
 トマトはジャガイモやトウモロコシと共にヨーロッパに広がり、アフリカ、果てはアジアにまでもたらされて行ったのです。

 こうした経路からして、中国料理におけるトマトの位置付けは、何となく西域を連想させるものがあります。
 では、トマトがその他の食材と一線を画した珍しい特別な存在かと言えば、さに非らず。
 大抵の地方でも、田舎町の食堂でも食べられるトマトを使った料理に、番茄炒蛋(ファンチエチャオダン)というのがあります。トマトと卵の炒め物です。中国全土的に、最もポピュラーなメニューの一つなのです。

 トマトは中国語で「西紅柿」「番茄」などと書きます。
 「西」や「番」(番は、外国、他民族のという意)という字面からも、トマトが異国渡りの品だと解るでしょう。
 言わばシルクロードの香り、ですかね。
 ・・・なんてロマンを掻き立てるのも、トマトの旨味や歴史を知った、今でこその話。

プーノの市場で。市場での働き手が女性なのは世界共通か・・・。 2003年 ペルー プーノ

 輪切りトマトの砂糖がけに、丸ごとトマト入りの汁麺。
 トマトに砂糖、の食べ方は前述の通り、日本でも以前からあったそうですが、そう言えば汁麺にトマト、というメニューも、最近どこぞのラーメン屋のメニューで見かけたのを思い出しました。

 私は未だにあの時の衝撃を忘れられずにいるというのに、正に隔世の感ありき。

 初めて接する異国の社会体制や国旗よろしく、鮮烈にして強烈な赤色に、驚きと刺激を受けっぱなしの、昔話でした。


・・・以下続く

(※ 註:この記事は 2005.7.30 に掲載されたものを転載しています)

第四回 トマト 1

食べ物・飲み物
08 /01 2018
第四回 トマト 1

  豪華な料理だった、ということ以外、実は初訪中の際供された料理の詳細なメニューを覚えていない私です。
 
 何せ1985年という、大分以前の話ですし、遺されている写真を見ても、円卓の上には食べ盛りの子供達が平らげて空に近い状態の皿が写っているばかりで(笑)、推測するのも難しい状態。

 それでも、色のせいか鮮明に憶えている料理があります。

 いずれもトマトを使ったものですが、輪切りにしたトマトの上に砂糖をまぶした冷菜が、一品目。

市場の野菜売り場 1996年海南島

 後々聞けば、地域的なものか日本にもトマトに砂糖をかけて食べる習慣はあるそうですが、野菜には塩、せいぜいがマヨネーズ、と思っていた子供には、衝撃的な食べ方だったのです。
 
 それは当時、トマトの生食があまり好きでなかった私には、余計に信じられないシロモノに映りました。
 
 しかし。長じて多少は野菜の旨味云々というのが解るようになると、あの頃中国で栽培されていた野菜は、殆どが無農薬な野趣に富んだ「贅沢品」だったのでは、と思うようにもなりました。敬遠して食べてみなかったのは、少し惜しかったかも知れません。

 もう一品は麺料理なのですが、汁麺に丸ごとトマトがプカプカと浮いたもの。
 生のトマトが駄目なら火を通してあればいいのか、という話になりますが、その頃私が認識していたトマトの加熱調理品言えば、スパゲティのソースのようにピューレ状になったものや、ピザやグラタンなどに薄切りのを載せてグリルしたもの位。
 
 つまり、同じ火を通したものでも、形状が判らないものか、それに近いトマト、だったのです。
 それだのに、汁物に丸のまんま浮かべるなんて!ひえー!信じられん!!

 夏の暑い盛りに、トマトの赤が余計暑苦しく、忌々しく映る。
大袈裟なようですが、この時は一寸日本に帰りたくなりました。


・・・以下続く

(※ 註:この記事は 2005.7.20 に掲載されたものを転載しています)

かずよ

北京留学時代のちょっと懐かしい話題から現代中国事情

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。