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第三十七回 北京住宅変遷記~M氏の場合~2

北京
09 /10 2018
2軒目の家のリビング。平素仕事に追われて忙しい2人らしく寛ぎ重視。(M氏撮影)

   2005年当時、M氏は3軒の部屋を購入、所有していました。証券の儲けでなのかは、私の関知することではありませんが、とにかくヤタラと羽振りがよろしい。しかし後から買うにしたがって、家が市中心に近付いているのは、これ又「Uターン現象」だと言えるのでしょうか・・・。

 私は写真でしか見たことがありませんが、他人に貸している1軒目のお宅は、北京郊外に建っています。

 北京から天津方面に高速道路を少し行った所にある、2軒目のお宅と北京市中心にごく近い複合都市計画の一角を占める3軒目のお宅を、愛犬と共に好きな時に好きな方で過ごすという優雅な生活を、M氏夫妻は現在送っています。何とも羨ましい話です。

 2軒目のお宅へは、2002年に北京を訪れた際、一度連れて行って頂いたことがあります。
 マンション群と、住民が憩う公園、簡単な買い物が出来る商店が敷地内に備わった、郊外型の集合住宅。高速道路の利用にも便利な立地に建つ、2軒目のお宅は130平米、2LDKの間取りでした。

 よく、テレビで有名人のお宅拝見といった番組を見ると、生活感がまるで無く、本当に使っているのか疑わしいものに出くわします。確かにM氏宅も、私がこれ迄に見てきた中国の一般的な家庭に比べると、差があり過ぎる程に整っている類ではあります。
 しかし、例えば厨房で言えば、実際調理の場面を見なくとも、ここは紛れも無く生活の場として根ざしていることが、私には判りました。

.2軒目の家の厨房。食器洗浄機やオーブン、レンジを目線の高さに合わせて設置。下のスペースを有効利用。真中のオーブン(SANYO製)、四合院の台所にもある。 2002年 北京

 主にドイツ製のツールでまとめられたシステムキッチンは、大変スッキリ。目線の高さに合わせて食器洗浄機やオーブンが据えられ、下部空間を有効に使う為の工夫が施されていました。
 そこに最初に彼らが住んでいた四合院の部屋で使われていたオーブンが納められていたのは、後日昔の写真を見比べていて気付いたことです。この日本製オーブンは、優に10年以上使われている筈。聞けば2005年の時点でも健在とのことで、今度は逆に驚きです。

 少なくとも大都市において、中国でも大量消費の時代に入っていると言える昨今、このようなモノを大事にする心意気を見ると、なんだかとても嬉しくなってしまうのでした。


 ・・・以下続く

(※ 註:この記事は 2006.10.21 に掲載されたものを転載しています)

第三十六回 北京住宅変遷記~M氏の場合~1

北京
09 /09 2018
M氏が住んでいた、四合院内部。ここも何家族かが一つの四合院に暮らしていた。 1992年 北京

 2005年2月末に、約3年ぶりで北京を訪れました。

 現地に駐在している知人などからも伝え聞いて判ってはいたものの、やはり直接目の当りにすると、その都市の変貌振りには、驚きと遺憾の意は隠せませんでした。
 10年前には無かった道も多く、主要道路の道幅は拡張されていました。以前は人が住んでいなかったような場所にもマンションが建ち、市中心部に昔から住んでいた人々の移住計画も、どんどん進んでいるようです。

 そんな中、やはり3年ぶりに再会した中国の友人M氏は、前述の通り、時代の流れ甚だしい北京に住まう若い世代の典型、と私自身は位置付けています。つぶさに、とはとても言えませんが、20年来の付き合いで、自分なりに彼らを観察しての印象です。
 彼らの経歴と同様に、その住まいもかなりの変遷を経ていることから、私が実際に家庭訪問したレポートを、しばらくお届けしたいと思います。

 M氏夫妻のお宅を初めて訪れたのは、1991年は国慶節(10月1日)の頃だったと記憶しています。
 彼らが教鞭を執っていた学校から歩いて数分、買い物客で賑わう繁華街・西単(シーダン)のすぐ裏、という好立地に建つ四合院の一室でした。
 清の時代には、この辺は貴族や高級官僚などが住まう地区だったそうで、夫妻のお宅も、そうした建物の一つだったと聞きました。

 四合院は、本来は中庭を囲むようにして家屋が配され、一族が家族単位などで各部屋にそれぞれ住まうものでした。
 新中国成立以後は、計画経済に則り、国や職場が住居を分配する方式となった為、伝統的な四合院の多くは長屋式に区切られ、全く異なる数家族が共同で住むようになったのです。

 私が初めて訪れたM氏宅も、この分配方式で供給された部屋でした。他の住民の部屋を覗く機会はありませんでしたが、M氏のお宅には、机、ベッド、箪笥、テレビ、冷蔵庫、・・・と大概の必需品は揃っていて、私が言うのも何ですが、狭い空間で上手に暮らしていました。

料理中の奥様。美味しいものを作るのに、広さや道具など大きな問題でないことが、よく分る。 1992年 北京

 しかしこの四合院を含む一帯は、90年代半ばから急速に進んだ区画整理により、残念ながら立ち退きを余儀なくされてしまいました。
 日本と違い、中国の立ち退き処理は大変迅速です。つい三日前まで人が住んでいた家が瓦礫の山と化すのは、中国ではそう珍しいことではありません。
 M氏によると、彼らに対する立退き料は1平米辺り、2,100元(当時1元約18円位か)。支給された立退き料は、新しい家を買う足しにしても良し、貯金しても良し、でどう使おうと自由だったそうです。
 こうしてM氏夫妻も、周辺の住民も皆移住して行きました。

 彼らが住まっていた界隈は、私が2002年に北京を訪れた折は、整地中で一部立ち入り禁止となっていました。2005年には、わざわざ車で通ってみましたが、やはり何の面影も残っていませんでした。

 古都の裏通りらしいのどかな風情も、ガラスと鉄筋の建物に占拠されて、今はもうありません。


 ・・・以下続く

(※ 註:この記事は 2006.9.30 に掲載されたものを転載しています)

第三十五回 有縁千里

知人・友人
09 /08 2018
2005年 北京

 1985年、青少年洋上セミナーで初訪中した時のことです。

 日中友好育むという趣旨から、単なる物見遊山に留まらず、この時の旅程には様々な活動や催しが組み込まれていました。
 その活動の一つ、北京市内の高校への交流訪問で、私たちの班が割り当てられたのは、市内随一の進学率を誇る中学(日本の中学、高校は、中国の初級中学、高級中学に相当)でした。
 学校の講堂で開かれた交流会で、たまたま同じテーブルに着いていた中国側の一人が、私の最も旧い中国の友人、教師だったM氏でした。

 スッカリ忘れていたのですが、どうやら私が訪問した先々で配っていた住所交換のメモを頼りに、後日お手紙を下さったのが文通の始まり。以来20余年の大半は細々とではありますが、主に紙の上での付き合いが続いています。
 その間双方それぞれが、国費留学生としてお互いの国に2年滞在し(M氏は大阪外国語大学、東京学芸大学。私は北京大学)、私や家族の者が北京へ行くことがあれば、少しの時間でも会っていましたから、思えば不思議なご縁です。

 さて、現在の彼は、と言いますと、夫婦(奥様も元は同校の教師)共に教職を辞し、現代中国知的若夫婦の典型たる転身を遂げます。

 M氏は、この若さ(40代)にして某学院の副院長に就任。たまに教壇に立つこともある、という生活。元は歴史の教師でしたが、現在受け持っている講義は、なぜか証券などの経済関係。実際に証券取引もしていて、結構羽振りが宜しいようです。
 奥様は元化学の教師でしたが、現在は某香港服飾メーカーの北京地区代表として、超多忙な毎日。
 あらゆる面で今正に伸びゆく、元気な中国の時流に見事乗っかったようなお二人ではあります。

 それでも両名共育ちの良さゆえか、ガツガツ・ギラギラ、という感じは皆無。だからこそ私も今日まで付き合いも続けているのでしょうが、さり気無くスゴイ所がスマートで、なかなか格好良いのであります。

 彼らの華麗な経歴を見ながら、フト我に返ると、一体自分は・・・、と思う時もあります。行き当たりバッタリ人生の私とは随分な差です。

久し振りに登った天安門の楼上からの天安門広場のながめ。 2005年 北京

 私自身は大したことも出来ない人間ですが、それでもせめて誠実に、孔子の言葉のように、彼らにとって会うたびに「朋あり遠方より来たる、また楽しからずや」な存在でありたいと思っております。


 ・・・以下続く

(※ 註:この記事は 2006.9.10 に掲載されたものを転載しています)

第三十四回 ストロー 2

中国
09 /07 2018
左の白いヒモのようなものが、紙製ストロー。となりの短いのが爪楊枝。ティーバック、王冠も全て1985年に持ち帰ったもの。

 中国の紙製ストローは、それ以前は不明ながら、1980年代の訪中経験者は、見たことがおありだと思います。私もその内の一人な訳です。

 紙製といっても、ロウか何かで表面をコーティングしてあるらしく、一応液体にすぐさま溶けてしまうものではありませんでしたが、それでもやはり、紙は紙。ストローを挿したまま暫く置いておくと、水分を含んだ先端部分が縮まり、管が塞がれてしまうのです。
 そうなると、口元でいくら力を入れても、ジュースはなかなか吸い上がって来ない。

 最初は紙製だと気付かず、一生懸命口をすぼませていた私は一体、愛すべき奴なのか、単に間抜けな奴なのか・・・・・。

 サッサと飲んでしまえばこんなことも無いのでしょうが、結局どうするのかなあ、と他の中国人の所作を見ていますと、傍らに用意してある、別の新しいストローを挿していました。ストローのお代わり、です。
 ポリプロピレン製のストローを当然としていた私には、一寸した驚きでした。

 紙製のストローがあまりに珍しくて、この時何本かの現物を日本に持ち帰ったものが、今も我が家の何処かに眠っているはずです。

 この紙製ストローは、1989年に私が短期留学で再訪中した際にも未だ現役でした。しかし、1990年代初頭に長期留学で滞在した北京には、既に無かったように思います。

 その後、日本における紙製ストローの話を採取しようと、少し年配の方にも伺ってみたのですが、今の所、記憶に留めておられる方はいらっしゃいません。
 もしかしたら、紙製ストローは、中国オリジナルなのかも。

 どなたか日本もしくは中国その他の国のストローの歴史について、ご存知の方がいらしたら、ご教示願ってみたいところです。


 ・・・以下続く

(※ 註:この記事は 2006.8.26 に掲載されたものを転載しています)

第三十三回 ストロー 1

食べ物・飲み物
09 /06 2018
学校帰りにアイスクリームを買う小学生。左のドリンクスタンドもビール、アイス、ヨーグルト・・・等がおいている。 1993年 北京

 身近で当たり前に存在するのと同じものが、所変わって見当たらない、存在しない(ようだ)という状況に遭遇したこと、ありますか?

 私がその一つとして思い出すモノに、ストローがあります。

 1985年夏の北京も暑かったのですが、例によって立ち寄る所は何処でも歓迎ムード。
 迎えた私たちに、少しでも暑さをしのいで快適に過ごしてもらおうという心づくしが、至る所で見られました。

 そのサービスの現れとして、飲み物がよく振舞われました。今でも観光ツアーで連れて行かれるお店などで飲み物が出てくる、アレです。
 当時は未だ缶入り飲料の技術が発達していなかったのか、缶ジュースよりも、瓶で出されることが多かったです。時には四角い紙パック入りジュースが出てくることもありました。

 味はオレンジの他、スイカやライチ、桃などもお目見えしていたと思います。既に中国らしい風味が、バラエティーに展開されていたのが印象的でした。
 当時で比較してみると○○味、というフレーバーに関する種類の豊富さだけで言えば、日本より中国の方が先を行っていたかも知れません。

手軽に水分補給。お茶を売る店。売れていない分には蓋が被せてある。 1993年 西安

 とにかく、初訪中で最もお世話になったのは瓶ジュースですが、中味はオレンジジュースが主流。昔懐かしい、粉末ジュースっぽい飲み口だったと記憶していますが、暑い盛りにはそんなこと、どうでも宜しい。出されるままに、グビグビやっていました。

 しかしこの瓶ジュース。最後まで飲みきるには、一手間が要ったのでした。
 勿論、ラッパ飲みでもすれば別ですが、瓶に挿してあるストローが紙製だったせいです。


 ・・・以下続く

(※ 註:この記事は 2006.7.30 に掲載されたものを転載しています)

かずよ

北京留学時代のちょっと懐かしい話題から現代中国事情

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