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第107回 北京ダッグ

食べ物・飲み物
09 /30 2023
 北京ダックを初めて食べたのは、多分1989年に短期留学していた北京市内は和平門にある「全聚徳」だったと思います。
 母校の恩師ご一行が北京にお越しになった際、北京留学組の私たちにも声を掛けて下さったのでした。

北京ダックの老舗 ・ 全聚徳前門店 2005年 北京

 北京ダックは、窯でパリパリに焼いたアヒルの皮を削ぎ切りにし、小麦粉を薄く伸ばして焼いた薄餅(バオピン)で甜麺醤、ネギ、キュウリなどと共に包んで食べる高級料理。私が大好きな中国料理の一つです。
 その頃は、北京ダックの名を聞いたことはあっても食べたことはない日本人がまだ多かったと思います。恩師の宴の末席に加えて頂くまでは私も同類だった訳ですが、学生の身分でこの贅沢な料理の味を覚えてしまいました。

 日本にも支店がある「全聚徳」は、創業の物語が映画化もされた有名店です。本店は和平門から地下鉄で一つ隣の駅の前門にあります。北京大学に長期留学していた90年代初頭には北京大学の近くにも支店があり、日本で食べるよりもずっと安い!と人数を集めては来店の機会を作っていました。

2015年 北京

 日本では、高級店でもダック一羽とか半羽分どころか、一巻き(薄餅にダックの皮一切れにキュウリとネギがちょっと)だけ皿に載せて一人前の料金を取るような料理でしたから、本場とは味もボリュームも異なります。
 薄餅で包むのはダックの皮だけでなく、肉も一緒に堪能するのが一般的。余った肉で作る前菜、炒め物のサイドオーダーもあり、最後は鴨湯(ヤータン・頭や翼の部分や骨でダシを取ったスープ)で〆るのが本場流。肉から骨まで使い倒します。
 どちらが本当なのか、好みにもよるのでしょうが、中国で供される北京ダックは、皮にダックの肉も付けている一方、日本では皮の部分を薄く削いで、限りなく肉は少なく。なるべく皮だけでパリパリ感を楽しむ食べ方が主流なようです。しかし、今もそのような高級扱いが存続する一方、近年では中華街まで出かけなくても、リーズナブルに提供する専門店が表れ、北京ダック好きとしては嬉しい状況です。
 始めて口にした当時「美味しい!」と思ったところで、それが何だか分からなかった甜麺醤も、今や「テンメンジャン」として日本全般に広く知られ、容易く入手できる中華調味料となりました。

2001年 北京

 しかし「北京ダック」と称してはいますが、元々は明代に南京から北京へ遷都した際、同時に南方の食文化が北京の宮廷にも伝えられ、材料であるアヒルも南京から北京に連れてこられたと云われています。だから本来は南京ダック?

 北京で消費されているアヒルは、現在は北京市郊外や河北省を中心に飼育されているようです。因みに、早く出荷するためと、より大きく、より多くの脂肪を蓄えた状態に育つよう、強制的に餌や飼料をパイプで胃に流し込んで飼育されたアヒルは「填鴨」(ティエンヤー)と呼ばれます。

 「詰め込み式教育」のことを、中国では「填鴨式教育」と云います。なかなか含蓄のある語です。どんな食用動物もそうですが、計画飼育されたものより、自然に育ったもののほうが出来が良いというか、体質も強く、美味しいとされています。
人間も同じかしら?
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第106回 通訳

中国
09 /20 2023
 実は、第105回でお話したアルバイトは、アテンドだけでなく講演の通訳も依頼されていました。

 当初、心理学に関する講演、との事で、何に関する講演なのか不明でした。事前に原稿を頂けないと下調べも出来ないし、専門用語を含めて何が飛び出すのか判らない状態でした。当日現場で立ち往生して聴講する方々へのご迷惑になっては困る・・・という理由で、通訳の件はご辞退申し上げたのですが、依頼者にすれば、私がネイティブと変わらぬ中国語使いになって帰って来たと思われたのでしょう。残念ながらご期待に沿えず、申し訳ない気持ちでいっぱいになりました。

 通訳は、話し手の言葉を自分一人が解れば良いというものではありません。その場で相手にも解るように伝えなければならないので、変換して訳出する言語の能力が非常に問われると思います。同時通訳やエンジニアの通訳などは、瞬発力や技術を養う特別な訓練と勉強が必要です。

幼稚園でのおゆうぎ。 1985年 上海

 日本でも小学生の英語教育に力を入れて色々取り組んでいるようですが、私は英語よりも母国語教育を重視するべきだと考えています。日本語の文法や用語も知らず、作文や書き取りなど母国語の基礎学力も固まらない内から、特に必要が生じている状況でもないのに、他の言語を学ばせるのはどうなのかな、と疑問を感じます。
親の仕事の都合で幼少期を海外で過ごす子供が、あっという間に現地の言葉を習得するのを非常に羨ましく思いますが、忘れてしまうのも早いと聞きます。
やはり、言語は必要に迫られれば、或る程度習得できるものなのではないでしょうか。

 自分がどんなレベルの話者でありたいか、によって学習目標も内容も違うと思いますが、私は自分が困らない程度であれば良いという位置づけです。
これ迄の経験から、日本語が出来る中国人のほうが中国語が出来る日本人よりも概ね高水準だと実感していますので、日本語を話せる中国人が同席していたら、私から中国語を無理に使うことはありません。

 現在、私は中国語を使って仕事をしていますが、日本語能力のほうが大事かな、と個人的には思っています。今はAIだとか自動翻訳機もあり、ある程度の言語変換は労せず出来るような世の中となりました。しかし、翻訳機能にも読み切れないニュアンスだとか、細かな間違い、完全なミスすら見られるのが現状です。それらを見出し、訳出言語を正しく整える力こそが、翻訳を行う上で最終的に必要なものだからです。将来は判りませんが、取り敢えず今の段階では、機械頼みだけだと思わぬ誤解を生む危険性があるという認識は持っていたほうが良いでしょう。コミュニケーション・ギャップやカルチャー・ギャップの研究があるくらいですから。

末は博士か・・・。 2004年 北京

 さて、そんな偉そうなことはともかく、先日片付けをしていたら、当時の講演会の原稿が出て来ました。
 母校での講演会以後、アテンドで赴いた他大学でも同じ内容の講演を複数回拝聴したので、その時のメモと、後で自分なりに訳を付けてまとめた記録も一緒に発見。通訳としてお役に立てなかった自分の不勉強がやはり恥ずかしかったのでしょう。原文ともども、久しぶりに読み直してしまいました。
 タイトルは「中国独生子女問題的心理学研究」。一人っ子の心身的特徴やその原因を述べながら、問題を様々な角度から行った研究の成果を紹介しつつ、考察を重ねている内容でした。当時携わっていた各分野の研究者たちは「一人っ子政策」を終えた中国の今をどう思われるでしょうか。

第105回 一人っ子

中国
08 /09 2023
 北京大学の留学を終えて、日本の母校へ戻って間もなくの頃、心理学科の先生からアルバイトのお話を頂きました。
 上海から来日した心理学者のお世話をするというもので、日程中ホテルへ迎えに行き、都内での講演会会場の送迎や観光のアテンドをし、最終日は京都の学会に出席するため、東京駅で新幹線にお乗せするまででしたが、毎日緊張の連続でした。自分の中国語がまだまだ人様の役に立つレベルには程遠い、ということがほとほとよく分かった経験でもありました。
 くだんの心理学者が東京滞在中は、我が母校にもお招きして講演をして頂きました。テーマは「一人っ子政策」についてでした。

 「一人っ子政策」は、正式名称を「計画生育政策」と称し、1979年から2014年まで実施された、中国の産児制限政策です。
 この政策が始まって数年後の放送だったと思いますが、NHKの特集番組を観た私は小学生だったか。強烈な印象を受けた記憶があります。日本の隣組のような社会システムの中で女性を監視するようなシーンとか、それこそ2人目を妊娠した女性に堕胎を強制(?説得?)していたりとか。多分同じ番組だったと思いますが、どうしても2人目を産みたくて隠れて出産し、届け出をしていない黒孩子(ヘイハイズ)も取材していたように思います。よく分からないながらも、子供心に何だか恐ろしく感じたのを憶えています。

 講演当時は、政策が施行された最初の世代がまだ成長しておらず、比較的新しい研究対象だったと思います。政策成果のほども現在進行形の状況でしたが、兄弟姉妹がいないことから過保護に育てられてしまう影響は、既に報告され始めていました。

竹製のベビーカー。 可愛い。 この子ももう、いいとしでしょう。 1992年 北京

 「小皇帝」「小皇后」「1-2-4体制」(子供1人を2人の親と4人の祖父母が世話をする)・・・などの新しい言葉を生み出した政策でもありました。とかく我儘、協調性が無いなどと批判されてきた一人っ子たちも、結婚適齢期になると特に女性が結婚相手に学歴や年収を問う傾向が強くなり「剰女(シェンニュイ=余り女)」という言葉まで出来てしまいました。中国語て、結構ストレートな表現をする言葉です。中国人女性は、余り女なんて称されて平気なのかしら。

 私と同世代の中国人の友達は、大概兄弟姉妹がいたのですが、自分よりひと世代以上若い中国人でも二人きょうだい、という例も見受けられ、「!?」と思ったことが何度かあります。
 どういう事なのか、直接彼らに尋ねはしませんでしが、失礼ながら「政策が厳しくなる前にギリギリ何とか間に合ったのかな」なんて勝手に解釈していました。

 90年代以降に、少数民族同士の結婚ならば二人以上産んで良しとなった、とか、海外在住者は規制外として子供を複数持てる、という話を聞いたこともあります。
 しょせん、当事者でなければ実際に課される政策の詳細も、彼らの心の内も解りません。
 政策が終了したのと入れ替わりに、中国は急速な高齢化社会に突入していると言われています。政策で何を優先するかは、もちろん国によって異なるのですが、社会の高齢化やその影響は、欧米や日本が既に問題となっていた筈なのに・・・。

 私が学生時代に研究していた老舎という現代作家の代表作に『四世同堂』という長編小説があります。四世代が同じ家に暮らす=幸福な家庭の象徴、を意味する言葉ですが、大家族の伝統を取り戻すのは、もう難しいかも知れません。

2009年 桂林

 家族構造の変化は、人の考え方や価値観も変えてしまったでしょう。これも時代の流れと諦めるしかないでしょうか。日本や欧米が、中国よりもほんのちょっとだけ早く高度成長期を迎えることが出来た中で生じた社会問題や失ったもの・・・決して喜ばしくない例が先にあるのだから、同じ轍を踏まないよう、充分に参考にして頂けたのだろうか?厚い人情や喜怒哀楽を感じる心など、昔ながらの良さまでが失われないよう、祈るばかりです。

第104回 スイカ

食べ物・飲み物
07 /27 2023
 栽培や冷蔵などの技術が発達した今では、食べ物に旬を感じることが少なくなりました。もちろん、競りで初物に高値が付いたり、流通量や価格で旬を認識することはあるでしょうが、舌で季節を知る感覚も忘れないようにしたいものです。

 北京大学留学中に新疆ウイグル自治区を旅行した時は、夏のまっさかり。暑さ凌ぎにスイカやハミ瓜をタラフク食べました。「地のモノ、旬のモノは味が違う!美味しい!!」と実感した最初でした。今となっては、なかなかこういう実体験は出来ないと思います。

1992~93年頃 北京

 スイカは古代エジプトで既に栽培されていたと云われていますが、世界各地で栽培されるようになったのは16世紀頃。中国へはシルクロード経由で西方より伝来したので、中国語でスイカは「西瓜(シーグヮー)」です。
 ハミ瓜はメロンの仲間ですが、新疆ウイグル自治区哈密(ハミ)地区が原産。古くは皇帝へも献上された、貴重な西域渡りの産物だったのでした。現在の中国でもブランド性の高い瓜なようです。
 私は、ハミ瓜は名前は知っていましたが、日本で食べたことがありませんでした。新疆の旅行中、車に積んで移動し、川で冷やしたものを食べた時の瑞瑞しさ!その甘さ!忘れられません。日本でも果物のことを水菓子と言いますが、正にその名の通りでした。

 北京でも、ハミ瓜にはなかなかお目に掛かれなかったように記憶していますが、スイカはとても身近な果物で、夏になると道のあちこちでスイカ売りのテントが張り出されていました。テント内には、山と積まれたスイカで埋め尽くされ、重さで値段が決まるのです。
 空調も満足に無いのが普通の環境では、スイカは夏の水分補給に欠かせない果物でもありました。水分だけでなく、果肉や種子に含まれるカリウムは、むくみの解消と利尿作用にも良く、夏バテにも効果があるので、旬の物を食べるのはやはり理にかなっているのでした。

1992~93年頃 北京

 留学したばかりの頃、露店で買う際には例え一玉食べきれない・・・と思っても、切り売り(も、一応してくれました)のスイカには手を出さないほうがいい、とアドバイスされたことがあります。切り分ける包丁が衛生的かどうか怪しいし、食べ過ぎてお腹を壊したほうがまだマシだ、という理由でした。ナルホド。 日本に居た頃には考えたこともありませんでしたが、これもまた外国人が当時の中国で暮らす上での生活の知恵だったのでした。

第103回 自転車

北京
06 /30 2023
 かつて1970年代の中国人における三種の神器は、ミシン、腕時計、そして自転車だそうです。自動車が普及する前は、自転車は大切な移動手段だった筈です。

 私も、北京時代には自転車を駆って色んな処へ脚をのばして・・・とお話ししたいところですが、帰国する留学生から譲られた中国製の自転車は、スプリングが悪く、サドルも硬くて棒で突き上げられているような乗り心地だったため、せいぜい大学構内の移動と近場へ走らせるくらいでした。一度だけ、北京大学から前門迄自転車で行ったことがあります。案の定、途中でお尻が痛くなって最後には立ちこぎで帰ったような記憶があります・・・。
 それに加え、交通事故に巻き込まれるのが怖いから、というのも自転車の長距離利用が少なかった理由でした。自転車で大きな十字路を横切るときは、一大決心が要りました。90年代初頭は、交通渋滞はまだ珍しかったと思いますが、交通マナーは既に問題になっていました。実際、私のルームメイトだったイタリア人は、トラックに自転車ごと引っ掛けられて、大けがを負ったのでした。
 当時は保険制度が、まだ普及も確立もされていなかったと思います。私も、家族から「あっちは命の値段が安いのだから余計に気を付けなさい!」と、偏見も相まって散々注意され続けていました。

王府井の自転車預り所 1993年 北京

 昔は、映画館や市場の横など多くの人が自転車で集まるような施設の周辺路上には、有料の自転車置き場があったものです。管理人の指示に従い、所定の場所に駐輪して料金を支払います。料金は3分~5分(ぶ。時間の「分・ふん」ではありません)。つまり、0.03~0.05元。日本円にして0.5円くらい?分なんて、今や事実上流通していない単位なのでは・・・。貨幣は、今もあるのかしら。1分玉やお札を見たことない人も多いのではないでしょうか。
 留学生であった私たちにも、1分や5分では、もう何も買えませんでした。せいぜい、量り売りの野菜や飴玉の代金の端数として、使えたかどうか・・・。でも、お金はお金です。
駐輪場に自転車を引いて入ると、管理人(オバサンが多かった)が目ざとく見つけてやって来ます。車掌さんが携帯するようなバッグに、徴収したお金やつり銭が入っています。おつりを貰う時は、小さく三角形に折りたたんだ紙の塊を渡されます。分の硬貨や紙幣を混ぜたつり銭をキッチリ包んだものです。おつりが5分なら、次に利用する時にそのまま使えます。今はどうなのでしょうか。もうお目に掛かれないモノの一つかも知れません。

自転車通勤で長安街をゆく! 1989年 北京

 中国の大都市では、日本よりも先にシェアサイクルのシステムが普及し始めました。自転車ユーザーの減少に伴い、北京では少なくとも90年代半ば頃までは車道で幅を利かせていた自転車専用レーンが徐々に狭められ、今はほぼ皆無なようです。自動車優先の今にして思えば、長安街を自転車で走ったのは貴重な体験だったと思います。

かずよ

北京留学時代のちょっと懐かしい話題から現代中国事情